投稿者:海外在住 投稿日:2017年 1月25日(水)08時46分6秒   通報
わが忘れ得ぬ同志 第8回 山崎 鋭一さん

 北極に
    光まばゆき
        大月天
     はるか地球の
           広布望みて

 私が初めてヨーロッパへ向かう機中、北極付近の高度一万メートルから仰い
だ月光は、冴えわたる宇宙の知性の如く輝いていた。
 遠大な一閻浮提の広宣流布の未来を展望しつつ、北欧デンマークの首都コペ
ンハーゲンに降り立ったのは、一九六一年(昭和三十六年)の十月五日、早朝
七時過ぎのことであった。
 空港で、蝶ネクタイ姿の壮年が、人なつっこい笑顔で迎えてくれた。
 その人こそ、パリから駆けつけた、山崎鋭一博士であった。
               ◇
 この時、私たちは、デンマークを起点として、西ドイツ(当時)、オランダ、
フランス、イギリス、スペイン、スイス、オーストリア、イタリアと、十八日
間で九カ国を回った。
 造られて間もない”ベルリンの壁”の前にも立った。欧州を分断し、民衆を
引き裂く、権力の魔性の壁に怒りがこみ上げた。
 私は、山崎さんたちに強く語った。
 「三十年後には、この壁は必ず取り払われているだろう!」
 欧州広布は、東西冷戦の”その先の世界”を見つめて出発したのである。
 旅半ばのロンドンのホテルで、私は言った。
 「山崎さん、欧州全体の連絡責任者をお願いしたいのですが、いいですか」
 間髪をいれず、力強い声で「はい! 」と返事が響いた。この呼吸である。
 当時、全欧州でも、会員は約十世帯にすぎなかった。彼自身も、仕事で渡欧
したのは、私の到着の十日前である。
 次の訪問地マドリードで、彼が「今後どうしたらよいでしょうか」と尋ねて
きたのも、当然といえば当然だったろう。
 しかし、私は断固として手を打った。一人への布石が、千人にも万人にも広
がっていくからである。
 「先駆者は辛いものです。だからこそ、耐えて法を広める人の功徳は、あま
りにも大きい」
 私の期待に、山崎さんの顔が、ぐっと引き締まり、誇りと決意が光った。

◆真の友人として
 私が、山崎さんと初めて会ったのは、一九五九年、信濃町の学会本部であっ
たと記憶する。妹の秋山栄子さん(現・SGI総合女性部長)に伴われて来た
のである。
 彼は新潟医科大学(現・新潟大学医学部)で博士号を取得し、ハーバード大
学や東京大学の付属病院で研究してきた、三十代半ばの最優秀の医学者であっ
た。家族で、彼だけが未入会という。
 「本当の友達はいますか」と聞くと、「いません」と率直な答えであった。
飾らぬ人柄に、好感がもてた。
 私は「真の友人として、一緒に生き抜きましょう。あなたのことは引き受け
ました」と言った。
 その言葉を、彼は、終生心に刻んだようである。
 この年、彼は入会した。妹と共に、広宣流布の麗しき人生の並木路を歩み始
めたのである。さらに妹の尽力もあって、女子部の良子夫人との良縁に恵まれ
た。
 当時、彼は大分県・別府の病院で副院長を務めていたが、甲状腺ホルモンの
研究で注目され、海外の大学等からも次々に招聘(しょうへい)が舞い込んで
きた。
 パリにある世界的な研究・教育機関コレージュ・ド・フランスへの雄飛を私
に報告してくれたのは、一九六一年の夏であった。
 「秋には、私もパリに行きます。その時は、一緒に各国を回りましょう」
 そう語りながら、私の胸には”ドクター山崎”を軸に、欧州広布の構想が、
大きく動き始めたのである。
               ◇
 山崎さんは、医学者として順風満帆(じゅんぷうまんぱん)であり、経済的
にも恵まれていた。
 だが、仏法を知るまでの彼の心は、何不自由ない経歴とは裏腹に、どこか空
虚な思いに支配されていた。生きる意味を渇仰していた。禅やキリスト教を試
したりもしたが、不安と焦りがつのるばかりであった。
 その彼が、妙法を受持し、友のために動き、祈り、御書を拝するなかで、仏
法の偉大な法理に触れた。
 「肉眼(にくげん)はしらず仏眼(ぶつげん)は此れをみる、虚空と大海と
には魚鳥(ぎょちょう)の飛行するあとあり」「凡夫即仏(ぼんぷそくほとけ)
なり・仏即凡夫なり・一念三千我実成仏これなり」(御書一四四六ページ) ──
目には見えなくとも、宇宙と自然と人間を貫く大法則がある。その生命の尊極
の道を明快に説き示したのが仏法である。
 彼は御本尊に唱題しながら、偉大な「普遍の法」を実感し、随喜の涙を抑え
ることができなかった。
 のちに、ヨーロッパの多くの友が、自己を確立しゆく精神的な基盤を求め、
悩んでいることを知った彼は、「自分が苦悩した思索が、すべて生きている」
とわが使命の不思議さを痛感するのであった。
                ◇
 忘れ得ぬ欧州統合の父クーデンホーフ・カレルギー伯爵は、強く訴えていた。
 「平和の領域は一歩一歩つつしか占拠できないものであって、現実に一歩前
進することは空想で何千歩進むより以上の価値がある」
 山崎さんはコレージュ・ド・フランスで、アメリカの大学から来ていた教授
と、共同研究に打ち込んだ。
 最先端の医学の開拓とともに、彼は誠実に欧州広布へ行動を起こした。良子
夫人と共に、最初は日本人の友人づくりから始めた。
 やがて辞書と首っ引きで、仏法を説明するフランス語のチラシを作成し、フ
ランス人にも対話を広げていった。自宅で開く座談会はいつも三、四人だった
が、粘り強く続けた。
 忍耐こそ誠実の試金石である。
 二度目の訪欧の時期を、私は一九六三年の一月とした。欧州の冬は厳しい。
そこで戦う同志の苦労を知っておきたかったからだ。
 この折、ヨーロッパ総支部がスタートし、山崎さんが総支部長に、良子夫人
が初代パリ支部長に就いた。
 この時、パリ支部は十八世帯、全欧州では約百世帯に発展していた。
 さらに私は、山崎さんの小さなアパートにお邪魔した。食卓に「欧州広布」
の旗を立て、同志の心づくしの正月料理を、皆で囲んだことも懐かしい。
 ご夫妻の狭い部屋が、欧州総支部の拠点となり、さらに欧州本部の拠点とな
った。「名前は立派に変わっても、部屋の狭いことは変わりません」と朗らか
に笑う彼であった。
 終生、住まいも、生活も、質素そのものであった。

◆大事故を乗り越え
 やがて、大きな転機が訪れた。共同研究者である教授がアメリカに帰国する
ことになったのである。
 山崎博士を信頼する教授からは、一緒にアメリカで研究しようと強く勧めら
れた。断れば、もうその研究はできない。
 彼は、決然とパリに残る道を選んだ。
 「私は広宣流布のために欧州に来たのです」と。
 ただ、長い学究生活への愛着は容易に断ち難く、無意識に研究室の方へ歩い
ていることもあったようだ。
 そうした未練の影を跡形もなくぬぐい去ったのは、一九六六年に遭遇した自
動車事故であった。
 地方指導からの帰りに、運転を誤って立木に衝突し、夫妻とも重傷を負って
しまったのだ。まさに、奇跡的に助かった大事故であった。
 私は「転重軽受」を確信し、わが弟子の回復を祈り、再起を真剣に祈った。
 手術では、大量の輸血を受けた。それはフランス人の血であった。
 自分はフランス人に命を助けられた ── その感謝が彼を変えた。
 広宣流布こそ、わがフランスへの恩返しだ!
 半年後に退院すると、複雑骨折した足を引きながら、会員を訪ねてパリ中を
歩く姿が見られた。
 山崎さんは、「事故を起こして申し訳ありませんでした。しかし、先生から
いただいた車が丈夫だったので、生命が守られました」
と述懐していた。
 そして七三年、彼は欧州の初代議長に就任した。
 ある時も、彼は声を強めて語ってくれた。
 「私は、この欧州で戦い、死んでいきます!」
 その言葉通り、山崎夫妻は国籍を取得し、フランス人となった。
 なお、彼に渡米を勧めてくれた教授は、ノーベル医学・生理学賞に輝いてい
る。それを心から祝福する彼には、なんの悔いもなかった。
 妻も、母も、妹も、そして同志も、そんな彼を最高に誇らしく思った。
 妙法は、一切衆生の苦悩を癒す「大良薬」である。
 山崎さんは、その妙法を持った「信心の名医」「生命のドクター」「広宣流
布の大博士」として、毀誉褒貶(きよほうへん)を超え、欧州を走り続けたの
である。

◆真実を見る眼
 一九八三年秋、八王子の東京富士美術館の開館を飾り、数々の名画に彩られ
た絢爛(けんらん)たる「近世フランス絵画展」が開催された。
 この展覧会の実現は、大美術史家ルネ・ユイグ氏との友情の結晶であった。
その陰で重要な懸け橋となってくれたのが、深い親交をもつ山崎さんであった。
 ある時、彼は晴れ晴れと述懐した。
 「欧州の本物の文化人は、『質』が違います。ほとんどがナチスと戦ってい
ます。命をかけて戦う文化人なのです。だから、社会における重みも違うので
す」
 ユイグ氏は、ナチスの侵略に対して、命がけで人類の至宝であるルーブル美
術館の絵画を守った文化の闘士である。
 思えば、大歴史家トインビー博士も、行動する作家マルロー氏も、ローマク
ラブ創始者のペッチェイ博士も、ファシズムと戦った方々であった。
 みな正邪を見極める眼を持っていた。自分が確かめたことは、他人から何と
批判されようが、紛動されなかった。それが、創価学会への正視眼(せいしが
ん)の評価にもつながっている。”こうした文化人との交流で、私の窓口とな
り、通訳となって貢献してくれたのが、山崎博士であった。

◆◆ 邪悪と戦い抜くのが文化人

◆正義は学会に!
 トインビー博士は叫んだ。「人間の魂はいずれも、善と悪とが支配権を争っ
て絶えず戦っている、精神的戦場である」と。
 仏法も勝負だ。永遠に、仏と魔との闘争である。
 一九九〇年の師走、邪宗門が広布破壊の本性を露(あらわ)にすると、欧州
でも学会乗っ取りを画策する、忘恩背信の幹部が現れた。
 山崎さんは攻防戦の渦中に飛び込んだ。体を張って真実を師子吼した。
 「正義は学会にしかない! 欧州広布は、先生によってつくられたのだ。ど
こまでも欧州は、先生と共に行くんだ」
 邪悪とは命をかけて戦うのが文化人である。
 そこに山崎さんの誇りがあった。
 ユイグ氏も、正義の言論の矢を放ってくださった。
 「創価学会が、仏教の深遠な価値とその世界性を宣揚し、精神の向上に基づ
く平和主義を、仏教の名において世界にもたらそうとして闘っていることに対
し、我々は感謝しなければなりません。権威と物質的な利害からの低劣な争い
が、この賞讃すべき高揚と輝かしい成功とに足枷(あしかせ)をはめようとす
るのなら、だれの目にも嘆かわしいことでありましょう」
 真実の知性から見れば、権威と嫉妬と貪欲な邪宗門など、時代錯誤の残骸に
過ぎなかったのである。
 「人間が意地わるなのは、やはり知性が足りないからだ」とは文豪ロマン・
ロランの鋭き洞察であった。
               ◇
 不思議にも、ほぼ時を同じくして”ベルリンの壁”が崩壊し、民衆を侮蔑す
る傲慢な権力も倒れた。
 東欧民主化が進み、欧州は新時代を迎えていた。
 だからこそ、どこまでも一人を大切にする、仏法の人間主義がいやまして光
り輝く時を迎えたのだ。
 欧州合衆国を夢見た文豪ユゴーは叫んだ。「人を作れ、人を作れよ」 ──
 一九九四年、欧州議長を長谷川彰一さん(現・欧州最高参与)に引き継ぎ、
名誉議長となった山崎さんは、一段と後継の育成と激励に心血を注いだ。
 南仏トレッツの欧州研修道場では、各国の研修会を年間六十回以上も行い、
七十歳を超えても、そのほとんどを担当した。
 早朝、パリを出て、空路午前九時開始の研修に駆けつける強行軍もたびたび
だった。聖教新聞に載った私のスピーチ等を、豊かな語学力を駆使して、どん
どん伝える。それが欧州メンバーの大きな力となった。
 また彼は、学生部などの若いメンバーと、共に御書を学んだ。準備には、よ
く夜を徹した。そこから今日の青年部や各方面の中心者が育っていった。皆が
山崎さんを、良き兄の如く、父の如く、慕い続けた。

◆最高の人生なり
 トレッツとの往復、引きも切らない個人指導、深夜までの翻訳作業、それに
もかかわらず誰よりも早く会館に行き、唱題を重ねた。
 青年の如く、精力的な毎日を送っていた彼が入院したのは、二〇〇〇年六月
初旬であった。
 以前から前立腺肥大の症状があり、医学博士の彼は、すぐに手術を受けるこ
とに決めた。手術後ほどなく退院し、自宅療養となった。
 下旬には、訪日する同志に、「ますます元気で頑張りますから!」と、私へ
の伝言を託しておられた。
 常に「学会のおかげで、最高に充実した人生を生きることができた。池田先
生のもとで戦えたことが、一番の幸せであり、名誉だ」と家族に語る彼であっ
た。
 容体が急変したのは、六月二十九日。走り続けた彼には、新たな生命へ、し
ばし休息が必要だったのかも知れない。突然の心不全であった。享年七十六歳。
 前日には、元気に私の著作の翻訳計画を作成していた。ただ未来を見つめて。

   欧州の
    広布先駆の
       君去りぬ
     その名 三世に
          薫り残らむ

 今や欧州SGIは、七万人を超える平和の大連帯となった。ロシアや旧東欧
諸国にも、地涌の同志が生き生きと活躍している。
 彼は今、欧州研修道場にほど近い、太陽に白く輝くサント・ビクトワール山
(聖なる勝利山)を仰ぐ墓地に眠っている。勝利の山と、大勝利の人生を語り
合うかのように ── 。
 ヨーロッパ広布の黄金の柱として生き抜いた山崎さんは、三世十方の仏菩薩
から至高の「生命の大勲章」を贈られているに違いない。そして無量無辺の諸
天善神の大喝采に包まれた、あの山崎博士の天真爛漫な笑顔が、私の生命から
離れることは永遠にない。
 妙法のため、欧州の友のために戦う山崎さんに贈ろうと思って書き留めた、
私の大好きな箴言があった。
 正義の言論闘争によって、フランス大革命の思想的先駆となったルソーの言
葉である。
 「わたしは、真理のために受難するということほど偉大で美しいことを知ら
ない」「正義と真理、これこそ人間の第一の義務である」
 この言葉を贈ろうと、私は思っていた。
  ── 日本、世界のドクター部の皆様のご活躍に、心から感謝を捧げて。