2017年1月23日 投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2017年 1月23日(月)20時46分28秒 通報 第22回【ギリシャ・永遠が見える丘】 人間主義文化の原点は、古代ギリシャ。 その精神を、あえて一言でいうならば 《生き生きと生きよ!》 だったかもしれない。 今も、「ケフィ」というギリシャ語があるそうだ。 『活力』とか 『意気揚々』『“生き”がいい』などの意味がある。 くよくよしないで、 「ともかく、やってみよう!」 「だめで、もともと」 「なんとかするさ」という楽天的な生命力のことである。 この「ケフィ」さえあれば、人生は楽しい。 人間の悩みの大部分は、勇気が足りないことから生まれるからだ。 「ここだ……ついに来た」 私の目の前に、文明の美の極致があった。 パルテノン神殿は生きていた。 青き空に、白き大理石は輝き、何という晴朗さだろう。 2400年の時を超えた、この生気、この生命感。 優美でありながら、しかも力強さがある。 豪壮でありながら、しかも計算されつくした精美さがある。 たとえば円柱。 内側へ、わずかに傾けてあるという。 まっすぐにすると、人間の目には、かえって 先端のほうが曲がって見える。その錯覚を計算に入れて、見た目には垂直に見え るようにしているのだ! 外側の四隅の柱は他よりも少し太い。 この4本は空を背景にするので、実際よりも細く見える。 それで太くしているのだという。 いわば“単純に見えるように考え抜いている”のである。 「驚くべきもの数々あれど、人間にまさる《驚くべきもの》なし」 当時の劇作家ソフォクレスが舞台で合唱隊(コロス)に歌わせた人間讃歌である。 (「アンティゴネ」) 建築だけではない。 肉体の極限を追求した、オリンピアの競技会。 知性を極限まで使った諸学問。 「政治への参加」を通して、人間を人間らしく完成させようとした民主の制度。 ギリシャには恩がある。 “人類よ、やってみよ。汝自身の秘めたカを解放せよ”と教えてくれた恩がある。 神殿が立つ「アクロポリスの丘」を訪れたのは 1962年。2月の4日であった。 冬の日差しは.やわらかだった。 日本から同行した友といっしょに、でこぼこ道の坂を上(のぼ)った。 丘の上から、アテネの白壁の家並みが一望できる。 遠くに光るのは紺碧のエーゲ海だ。 空港から市内にくる途中、ゆるやかな海岸線には漁船が浮かび、カモメが群れ飛 んでいた。 おばあさんが、ゆっくりと乳母車を押していた。 桜に似た早咲きのアーモンドの花がつぼみをふくらませていた。のどかだった。 しかし━━その陰に、 人々の、何かに耐えているかのような気配があった。 第二次大戦が終わって、17年がたっていた。 しかし、その後もつごう 5年間、内乱があり、 私が訪問したころも政治的混乱は続いていたのである。 ギリシャというと、古代の話ばかりになりがちである。 しかし、それだけでは民衆の現実から離れてしまう。 我らが“文化の大恩人”の国が、どれほど苦労してきたか。 他民族による幾世紀もの支配。 この丘に、ナチスの「カギ十字」の旗が翻った日もあった。 1941年の4月27日、 ドイツ軍に占領されたのである。 占領軍は作物も家畜も押収し、飢饉となった。 アテネの街角に餓死者が倒れた。強制収容所に、知人が友人が家族が消えていっ た。 この時だ。 吟遊詩人ホメロスが謳った 〈ギリシャの英雄〉の 不敵さが蘇った! 翌5月のある夜のこと。 闇にまぎれて、2人の学生が丘に近づいていった。 見つかれば命はない。 彼らは歩哨(ほしょう)の目を盗んで、カギ十字はためく巨大な鉄柱によじのぼ った。 翌朝、アテネの市民は驚喜した。 見上げても、あの忌(い)まわしき旗がない! なんと、すがすがしい空だろう!やってくれたぞ! 全土で勇敢な抵抗が始まった。 『ギリシャ人くらい生きることの意味を知っている者はいない。 彼らは死ぬことを憎むが、自分たちをつなぐ鉄鎖も又、憎むのだ』 (メリナ・メルクーリ著 『ギリシャ━━わが愛』合同出版) 3年半後、ようやく占領は終わった。 だが悲劇は終わらなかった。たちまち左右激突の内戦が始まったのだ。 背景には、東西の接点ギリシャを自陣営のもとに置こうという大国の意思があっ た。 ナチスを追い出した英雄たちも、ゲリラと呼ばれて自国の政府軍に追われる身と なった。 攻撃。報復。 それに対して、また報復の悪循環。 内戦の傷は、あまりにも深かった。 息子を殺された悲しみに、何十年も、死ぬまで、ただの一言もしゃべらなくなっ た母がいた。 ある政府軍の兵士は、ゲリラとされた男を連行した。 その時、男の妻の眼差(まなざ)しに、胸を突かれた。 幼子を抱いたまま自分をじっと見たその眼差し━━ 憤怒と軽蔑と憎悪に燃える、その眼が生涯、夜ごとに彼を苦しめた。 人類は進歩したのだろうか? 『平和の時には、 子どもが父を葬る。 戦争になれば、父が子どもを葬るはめになる』 (「歴史」)と、 ヘロドトスが嘆いたのは、紀元前5世紀の昔ではないか? アクロポリスの丘から、ふもとを見ると、古代の「ディオニソス劇場」の跡があ った。 この国そのものが、運命と戦うギリシャ悲劇の主人公に思えた。 私は祈った。 『ギリシャに平和を!』 私は信じた。 『ギリシャ人は偉大な民族だ。きっと春を取り戻す!』 その後、私の訪問の5年後(1967年)には、 クーデターによって軍事政権となり、74年まで続いた。 民主主義の生まれ故郷で、民主主義が行えない苦しみ! そうした苦難の中、わがギリシャの同志は団結し、祖国の幸福を祈り続けてきた。 そして昨2003年、 法人として晴れの出発ができたのである。 ギリシャの国も新しい時代を迎えた。 その象徴が、この夏のオリンピックである。 大恩あるギリシャで栄光の祭典である。 戦禍のギリシャで平和の祭典である。 こんなうれしいことはない。 二十世紀ギリシャの文豪ニコス・カザンツァキ氏は. 祖国の内戦に苦しみながら、どこか一国が不幸であるうちは、他の国々も幸福に はなれないはずだと訴えた。 『人間はすべて兄弟なのだという単純な真理を、全人類に一度できっぱりとわか らせる単純な言葉を発見しなければなりません』 (1946年、イギリスBBC放送でのアピール。清水茂訳) 私は『地球民族主義』との. 恩師・戸田先生の信条を思い出す。 全人類は “ひとつの民族”であり、“きょうだい” なのだ! この恩師の叫びは、ただの理論ではなかった。 私の全身での〈“実感”〉であった。 地上のすべての戦争は、私にとって、同じ地球民族同士が殺しあう内戦である。 丘を下(お)りてから、「ソクラテスの牢」へ向かった。 むき出しの岩壁に、鉄格子のついた岩穴があった。 この牢を見て、私は思った。 『迫害されたソクラテスは、それでも幸せだった。 プラトンという良き弟子がいたから!』 師匠の勝敗は、弟子で決まる。 私が、この時の旅で歴訪した国は、イラン、イラク、トルコ、ギリシャ、エジプ ト、パキスタン。 私は同行の友に語った。 『恩師が叫んだ地球民族主義のために、弟子が道を開くのだ!』 やろう、断じて。 今、だれが笑おうと、我らの正しさは二百年後の歴史が証明してくれるにちがい ない。 その絢爛たる未来をば、パルテノンも変わらぬ姿で見届けてくれるにちがいない。 その日を楽しみに、友よ、生きよう。 戦おう。生き生きと! 市街に出て、アクロポリスの丘を見上げれば、永遠の殿堂と永遠の青空。 影ひとつない明るさで、にっこりと下界(げかい)を見守っていた。 Tweet