投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月29日(月)16時45分10秒 返信・引用 編集済

「経文」に背いた「邪師」に従っては阿鼻地獄である、と大聖人は仰せである。
「持妙法華問答抄」には、次のように御指南されている。
「邪師の法を信じ受くる者を名けて毒を飲む者なりと天台は釈し給へり汝能く是を慎むべし是を慎むべし」(御書四六五頁)

――「邪師の法を信じ受ける者を名づけて、毒を飲む者というのである」と天台大師は解釈されている。あなたは、よくよくこのことを考えて謹んでいきなさい。謹んでいきなさい――。

この「邪師」とは、同抄によれば、法華経を正しく受持している人を「かろしめ・いやしみ・にくみ・そねみ・うらみを・むすばん」(御書四六五頁)

――軽んじ、卑しみ、憎み、嫉み(妬み)、恨みの心を固める――そういう僧侶のことである。

すなわち、「法」は尊いと言いながら、法を弘めている「人」を軽んじ、憎む。
そういう邪師の言うことを信じ従うことは「毒を飲む」のと同じである、気をつけなさい――との仰せである。

「一切の草木は地より出生せり、是を以て思うに一切の仏法も又人によりて弘まるべし」(同頁)

――一切の草木は大地から生え出る。このことをもって思うに、一切の仏法もまた「人」によって弘まるのである――と。

現実に弘法する「人」がいてこそ「法」は力を発揮する。

さらに「其の人を毀るは其の法を毀るなり其の子を賤しむるは即ち其の親を賤しむなり」(御書四四六頁)

――(弘法している)その「人」をそしるのは、(弘めている)「法」をそしることである。「子ども」をばかにするのは、すなわち、その「親」をばかにすることである――と大聖人は仰せである。

その「人」とは、別して大聖人であられる。
総じては、御本仏の眷属である、私ども広布の推進者、学会員である。
死身弘法の「人」をそしるのは、「妙法」をそしる謗法となる、と。
また、仏子を見くだすのは「親」であられる御本仏、妙法を見くだすことになろう。

御遺命である「世界広宣流布」の道を壮大に開いたSGI(創価学会インターナショナル)をそしり、見くだす(いやしむ)ことは、すなわち「御本尊」と「大聖人」をそしり、見くだすことになるとの文証とも拝される。

そして「豈冥の照覧恥かしからざらんや地獄の苦み恐るべし恐るべし慎むべし慎むべし」(同頁)

――仏菩薩が御照覧になっているのに、どうして恥ずかしくないことがあろうか。地獄の苦しみを、恐るべきである。恐るべきである。慎むべきである。慎むべきである――と。

今回のことも、御本仏が全部、御照覧されている。
恥を知り、地獄の苦しみを恐れるべきであると、大聖人は仰せになっておられる。

ともあれ「大聖人への師敵対」の「邪師」を、そのままにしておいてはならない――これが、日興上人の身延離山の根本精神であられた。

邪師・日向と、邪師にたぶらかされた波木井実長によって、《清流》が、《濁流》に変わった身延に見切りをつけられたのである。
それはまた「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書一六〇〇頁)との師・大聖人の御遺命実現への、一歩であられた。
「一閻浮提広宣流布」への厳然たる前進であられた。
「日興上人の末流」か、「日向、波木井の末流」か――その違いは「大聖人の仰せのまま」であるかどうか、「根源の師」への「随従」か「師敵対」か、この一点にある。

この基準をもって見る時、私どもがこそが、三宝の「仏宝」(日蓮大聖人)、「法宝」(大御本尊)、そして真の「僧宝」であられる日興上人に信伏随従していることは、あまりにも明らかである。

【アメリカSGI第一回総会 平成三年九月二十九日(大作全集七十八巻)】