投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月29日(月)10時17分22秒 返信・引用

先日(九月二十五日)、お会いした作家のエリー・ヴィーゼル氏も、強制収容所での体験をとおして「宗教は人類に貢献するものでなければなりません」と語られていた。

切実な心情を私は感じた。
反対に「人間が宗教に奉仕する」――その延長は狂言となり、地獄絵となるとの心であろう。

さて、それでは「狂言」とは何であるか。
ティリッヒ博士は、その心理の根源を「疑惑の抑圧」としている。

「われわれが狂言的と呼ぶ人々は、彼ら自身の疑惑を抑圧しているものである。彼らにも、より良いと認められるものがあるのであるが、彼らはこのより良い知識を受け容れようとはしない。そこで彼らは、自ら抑圧して隠しているところの、彼ら自身の裏面にかかげるすべての人々に対して、攻撃的となる」

――たとえば「SGIは正しい」と内心(裏面)では知りながら、抑圧して、「認めまい」と思っている。
そこで、はっきりと(「表」だって)そう主張する人々に対して攻撃的になる。
自分の不安定な内心、確信なき心を、ぐらつかせる人々であるからいちばん憎むのである。
じつは、こうした人々は、自分自身の隠された「裏面」に対して、いらだち、怒っているのである――鋭い洞察と思う。

さらに「このようにして彼らは攻撃的となり、他のものを自分のように変えようとし、さもなければ破壊しようとする」と。

そうした人々の心理を見ぬけば、不当に哀れむべき、不幸な姿であることがわかる。
攻撃的に仏子をいじめ、自分に服従させようとし、さもなければ、仏子の「誇り」と「確信」の前進を破壊しようとする。
また、狂言的な人々の特徴として、彼らは「対話」を拒否する。

「もはや彼らと話し合うことすらできないのである。なぜなら、彼らは議論される問題について、真剣に話し合う気構えをするだけで、彼ら自身の抑圧が崩されるからである」とティリッヒ博士は言う。

たとえていえば、《ぐらぐらしている積み木》であることを内心では自覚しているから、それをゆるがせるような人に、そばに来てほしくない、対話をしたくないのである。
反対に、「疑惑の抑圧」がなく、何でも話し合える雰囲気のなかで、「正しい信仰」ははぐくまれていく。

【アメリカSGI第一回総会 平成三年九月二十九日(大作全集七十八巻)】