投稿者:飛翔こそ蘇生 投稿日:2016年12月22日(木)12時17分2秒   通報 編集済
ふと考えてみました。

「打ち出しに疑問を持つこと」
「広いデータベースから客観的に論理的な批判をすること」
「学会幹部や公明の悪事に気づき不信を抱くこと」

そういうのを創価脳では
「魔」だと思って
それを理由に学会活動から距離を置いたら
「魔に食い破られた姿」って思う。
あるいは逆に
「池田先生はこう言われていたはずだ」なんて
食い下がるのも、干される。

そういうのがあるんじゃないかと思う。

それって端的に「学会組織は正しい」という
「組織信仰」にすり替わっちゃってるという
「法難」なんですよね。

幹部や公明への不信は仏法への不信とは無関係です。

仏法で言う無疑とは
一切疑ってはいけないという不疑ではなくて
疑って疑い抜いても否定できない生命の真実の
もはや疑いようがないという無疑です。

自己機能が淡々と刻む歓喜の生命現象に気づき
自我機能を抑制し仏智に委ねる大生命力です。

そうなっていない創価は煩悩まみれなのです。
これがまず煩悩障です。
http://www.sokanet.jp/pr/kyougakunyuumon/shinkoutojissenn/3-nannwonorikoerushinjinn/01-2/01-2/

大きくは創価の教団運営
小さくは地区等の運営
その上のあれやこれやを隠蔽したりして
正しい信仰に素直に向かうのが立ちいかなくなる。
これが業障です。

こういう時のこういう組織の中に
生まれ合わせているのが報障かな?
紛らわしく競い起こっていることに
気づくか迷うかです。
難は大きく境涯を開くチャンスです。

まず気づくことが迹を開くスタートです。

そのための手を池田先生は打っておいてくれた。
有難い師匠なのです。

「酒、金、女」厳しく幹部を責めた池田先生。
真面目に純粋に悩んでいる人に魔が入っているんじゃない。
ここにいる傲慢な幹部たちに入っているのだと。
これがまず煩悩魔ですよね。
http://www.sokanet.jp/pr/kyougakunyuumon/shinkoutojissenn/3-nannwonorikoerushinjinn/01-2/02-2/

「創価学会の会長は偉いんです」とか
正当化できていると思って
除名とかやりたい放題。
これ天子魔ですね。

それよりも、考えてちょっと恐くなったのが
死魔。「池田先生が生きているうちに」うんぬんかんぬん
師匠の生き死にを、なんとか自分たちの都合の良いように
利用しようという愚考。

そういう「思い込み」「信じ込み」の上書きの世界で
不調和をきたし疲弊していることに気づけないのが
陰魔ですね。

あれ?
あれれれれれ?

ちゃんと意味を拾っていくと
三障四魔って一カ所に集中していきませんかね?

なるほど、法難なんですね。

これを乗り越えて
我が胸中に池田先生を輝かせる。

それが師弟の勝利であり
仏法の勝利である。

究極的には法華経は
生命の体感覚知の世界です。

歓喜の輝きの世界です。

悪を暴くは何のため
教学の研鑽は何のため
問題の総括は何のため
信心するは何のため
人触れ合うは何のため

気づくことです。