2016年12月22日 投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月22日(木)06時36分50秒 通報 ◎「『祈祷抄』講義」から (1977年10月22日「聖教新聞」掲載) されば法華経の行者の祈《いの》る祈《いのり》は響《ひびき》の音に応ず るがごとし・影の体にそ《添》えるがごとし、す《澄》める水に月のうつるが ごとし・方諸《ほうしょ》の水をまねくがごとし・磁石の鉄をす《吸》うがご とし・琥珀の塵をとるがごとし、あき《明》らかなる鏡の物の色をうかぶるが ごとし」(御書1347㌻) ──したがって、法華経の行者が祈る祈りは、響きが音に応ずるように、影 が身体に添うように、澄んだ水に月が映るように、方諸(鏡の一種)が水を招 くように、磁石が鉄を吸うように、琥珀が塵を取るように、明らかな鏡が物の 色を浮かべるように必ず叶うのである── 法華経の行者の祈りは、必ず叶うことを断言された御文です。引かれた譬え が、いずれも自然の道理、事実の姿であることに、日蓮大聖人の強い御確信を みる思いがします。 音には響きが応ずるように、体に影が従うように、法華経の行者の祈りのあ るところ、そこに結果が出ないわけはない。祈りに応じて、自己の生命の色心 にわたる回転が起こり、また依報(=自身の生命を取り巻く環境世界)もそれ に呼応して動くとの仰せであります。 祈りとは、決して観念ではない。現代人の目からすれば、目に見えない生命 の世界は観念の産物にすぎないと考えるかもしれません。しかし、もし物質的 な観点だけで物事をとらえていったならば、人と人との関係、人と物との関係 の大部分は、偶然の混沌の中に埋没してしまうでしょう。 仏法の透徹した英知は、その混沌の奥に生命の法を見いだし、事象を内より 支え、動かしていく力をとらえているのであります。 「命已《すで》に一念にすぎざれば仏は一念随喜の功徳と説き給へり」(御 書466㌻)と仰せのように、瞬間瞬間に如々として来って内より自身を支え、 本源的な方向性を与えていくものこそが、最も問題とされなければならないわ けであります。祈りとは、この本源的な世界における、生命の迷いとの唯一の 対決の在り方といってよいでありましょう。 したがって、祈りとは、正しい実践、粘り強い行動を貫くための源泉であり ます。祈りのない行動ほどもろいものはない。それは、ある時は順調で、意気 盛んにみえるかもしれません。しかし、ひとたび逆境に直面するや、枯れ木の ように、もろくも挫折してしまうでありましょう。なぜなら、そこには、我が 胸中を制覇するという一点が欠けているがゆえに、現実社会の浮き沈みの中で 、木の葉のように翻弄されてしまうからであります。 人生の坂は、一直線に向上の道をたどるようなものでは、決してありません 。成功もあれば失敗もある。勝つときもあれば負けるときもあります。そうし た、様々な曲線を描きつつ、一歩一歩、成長の足跡を刻んでいくものでありま す。その過程にあって、勝って傲らず、負けてなお挫けぬ、強靭な発条《ばね 》として働くのが、祈りなのであります。 ゆえに祈りのある人ほど強いものはない。我が強盛なる祈りに込めた一念が 、信力、行力となってあらわれ、それと相呼応して仏力、法力が作動するので あります。主体はあくまで人間であります。祈りとは、人間の心に変化をもた らすものであります。 目に見えないが深いその一人の心の変化は、決して一人にとどまるものではあ りません。また一つの地域の変革は、決してその地域のみにとどまってはいな い。一波が万波を呼ぶように、必ず他の地域に変革の波動を及ぼしていくので あります。そうした展転《てんでん》の原点となる最初の一撃は、一人の人間 の心の中における変革であると、私は申し上げたいのであります。 仏法は道理である、と言われることの深意もここにあるといってよいでしょう。 譬えの中の「音」「体」「すめる水」等は祈りの姿であり、「響」「影」「水 にうつる月」等は、祈りの叶っていく自然な様相をあらわしていると拝すること もできます。それらの譬えが自然の理法であるように、法華経の行者の祈りは、 生命の世界の必然の法として、道理として、必ず叶っていくのであります。 こうした祈りは、傲慢や慢心とは、およそ縁遠いものでありましょう。端座 唱題の凜然たる姿には、浅薄な自己の智慧、わずかな経験への執着を乗り越え て、仏の智慧によって見いだされた生命の法、自然、宇宙の根源のリズムに冥 合しようとの、謙虚な姿勢が脈打っているものであります。卑屈にもならず、 一切の活動を一念へと凝縮し、生命の充電を受けつ、無限の飛躍を期している 。それは人間生命の、最も健康にして充溢した姿なのであります。 ともかくも、私どもは、生活の、人生のすべての問題を御本尊に祈りきって 、取り組んでいこうではありませんか。祈ることが大事であり、そこから一切 が出発することを忘れてはならないと申し上げたい。事のうえにおいて、祈り を失って、我が生命を回転させなければ、どのようなうまい話をし、高尚な 理論を展開しても、それはすべて理であり、夢であり、幻となってしまう。 信心といい、学会精神といい、すべて現実を、強く、深く祈ることから始まる といってよいのであります。仏法の祈りは、単に祈っていればいいというもの ではない。満々たる生命力をはらんだ矢が射られていくごとく、行動、実践を はらんでいるのであります。したがって、行動なき祈りは観念であり、祈りな き行動は空転なのであります。 ゆえに、偉大なる祈りは、偉大なる責任感から起こると申し上げたい。仕事 に対し、生活に対し、人生に対して無責任な姿勢、どうでもいいという姿勢か らは、決して祈りは起こってきません。自己のかかわる一切に責任を持ち、真 剣に取り組んでいる人こそ祈りを持つものであります。 世の中が厳しいだけに、生活の一つ一つに強い祈りを持って取り組んでいただ きたいことを重ねて申し上げ、私の講義とさせていただきます。 Tweet