投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月20日(火)07時07分34秒   通報
(愛知県・井田さん 女性57)
井田さんは、愛知県で市立保育園園長を務めている。園児のお母さんたちの悩みに、丹念に耳を傾ける気配り先生として信頼を集めている。

生活リズムの変化、両親の就業形態の多様化、朝食の欠損など食生活の乱れ、核家族化や母子家庭の増加など、幼児の発育を不安定にさせる要因は増えている。育児ノイローゼ、乳幼児虐待など、人にいえない悩みを抱える母も少なくない。

井田さんは語る。「親が精神的に安定し、明るい家庭は、温かな育児ができます。だからこそ、お母さん方の不安や苦しみを理解し、寄り添ってあげたい」

◇長男のぜんそくに悩み、そして学んだ

井田さんは3人の息子を育て上げた。その経験は、保育士としての成長につながってきた。特に、長男は幼いころ、ぜんそくを患った。最初は、発作が起きるとあわててしまい、背中をさすることしかできなかった。「一体、どうすればいいの…」

井田さんは「大地はささばはづ外 るるとも虚空おおぞら をつなぐ者はありとも・潮のみ満 ちひ干 ぬ事はありとも日は西より出い づるとも・法華経の行者の祈りのかな叶 はぬ事はあるべからず」(御書1351-18祈祷抄) との御聖訓を何度も読み返し、唱題に励んだ。

その結果、子どものつらさを分かってあげる。「一人じゃない」と安心させる。…愛情が特効薬だと気づいた。病気の治療も功を奏し、小学校を卒業するまでに、ぜんそくは完治した。そうした経験を生かし、井田さんは保育園でも、病弱な子どもたちに自信をもって、かかわれるようになった。

◇週末は名古屋から長野県の母のもとへ

1988年(昭和63年)夏、長野県の山荘で夫婦で管理人を務めていた井田さんの母が、脳腫瘍で病に伏した。状態はにわかに悪化し、名古屋からかけつけた娘の顔もわからない。井田さんは、御本尊に快方を祈った。本紙の購読推進にも力を入れた。

約1カ月後に行われた手術は、家族、同志の懸命な祈りもあって、無事に成功した。リハビリの結果、母の記憶はある程度戻り、日常会話もできるまでに回復した。

弟夫妻が両親の近くに住んでいた。ウィークデーは弟夫妻が母の面倒を見てくれた。保育園が休みの土・日は、右半身に不自由が残った母の介護に長野県へ通った。井田さんの主人(支部長57)も協力してくれた。3人の息子たちも、折りあるごとにおばあちゃんをいたわった。家族みんなの互いへの思いやりが深まった。     1989年12月、母は亡くなった。

◇父、脳梗塞から認知症へ

1990年3月、母の死去から3カ月後、父が脳梗塞で倒れた。一命を取り留めたが、後遺症が残った。計算ができなくなり、次第に自宅のある場所がわからなくなった。8カ月間、名古屋に連れてきていっしょに暮らした。

平日は、昼休みに一度、保育園から帰宅した。父がいなくなっていることもあった。必死で近隣を探し回った。息の詰まるような毎日。苦悩と、たった一人で向き合う孤独感。

「保育士をやめるいかない」と、心が折れそうになったことも一度や二度ではない。そのたびに夫や息子たちに励まされ、再び父と向き合うことができた。自宅療養が難しくなり、父は再び、入院した。

認知症が進行して、暴れることもあった。父の感染症や疥癬が原因で、ほかの患者から距離を置かれたり、介護士に断られたりもした。医師に「うちの病院では無理」と告げられ、転院も経験した。

そんなある日、地区婦人部長が見舞いに来た。「おじいちゃん、元気? 井田さんも元気?」 力強く励ましてくれる真心が、何よりうれしかった。久しぶりに心が晴れ晴れとした。父は倒れてから6年間寿命を延ばして亡くなった。

父母の闘病を支えた経験は、いつしか、井田さんの「心」を鍛えていた。人の痛みがわかる自分に成長していた。井田さんは思った。「私が保育士になれるよう苦労して学校に出してくれたのも、保育士としての活躍を一番喜んでくれたのも、父母だ。介護の経験を糧に、幼児教育の使命の道を全うしよう!

現在、井田さんは、中部教育部の幼児教育部長を務める。母親たちの教育相談を受ける「ぽかぽか広場」の中心者として力を注ぎ、好評を博している。「直面する課題が困難であるほど、勝利への一念は強くなる…。私が実感してきたことを、一人でも多くのお母さん方に実感してもらい、親子ともに幸せになってほしい。そう願う毎日です」

2006年2月7日