2016年12月17日 投稿者:まなこ 投稿日:2016年12月17日(土)08時30分34秒 通報 【池田】 ユングのいわゆる“原初イメージ”は、“集団心”といわれているものと同じだと解釈できますね。つまり、一人一人の人間の心の奥底には、人類発生以来のすべての遺産が、人類共通のものとして受け継がれ、奥深く潜在しているということでしょう。 宗教は、そうした潜在意識層を含み、さらにその奥に真実の実在を求めようとするものです。したがって、宗教は多分に直観の世界であるわけですが、しかし、宗教が直観だけを強調するとドグマに陥ってしまいます。 私は、宗教の直観智も、理性の光に照らされて初めて現実に生きたものになると考えています。さきほど、理性的直観でなければならないと申し上げたのは、そうした意味も含めてです。 同様に、科学においても、理性だけでよしとするのでは片手落ちであり、直観智に支えられた理性でなければならないと考えるのです。 【トインビー】 私は、科学と宗教は、人間の潜在意識のなかの“個人的な層”からも“普遍的な層”からも、直観を引き出すものと信じています。この点、科学者の立てる仮説は、宗教的覚者の洞察と同質のものです。ただし、科学者たちは、その直観を意識の場において検証にさらしますから、その点での厳密さは宗教家にまさります。 これに対して、宗教的覚者たちは、宇宙の本質とか人生の意味とかの根本的疑問に、ドグマチックな解答を与えることのほうに、より多く意を用います。これらの根本的疑問は、たいていの人々がその生涯でいつかは問いかけるものですが、しかし、これに対する検証可能な解答というものはありません。それは人間の思考能力を超えたものなのです。にもかかわらず、そうした根本的な疑問こそ、われわれの心に最も切実に迫り、最も執拗に解答を求めるものです。宗教的覚者がこれに与える解答は、検証不可能という意味では、たしかにドグマチックです。ただし、ギリシア語の“ドグマ”という語の原義は、一般的に認識され承認されている真理に対して、一つの意見、という意味なのです。 科学者たちは、いろいろな現象を観察し、それらに合理的な説明をさがし、そこから得た結論を調べる努力に、彼らの目的を限定しています。こうした科学に対して、宗教のほうは、人間が意識に目覚め、これから一生を過ごさなければならない、この神秘的な世界の地図を与えてくれます。この地図はもちろん憶測によるものにすぎませんが、しかし、われわれはそれなしですますわけにはいきません。それは人生に不可欠なものです。しかも、この地図は、科学的探究法によって人間が近づきうる宇宙のうちの小断片を調べ、立証してきた科学の調査結果の多くよりも、われわれにとってはるかに実質的な意義をもつものなのです。 もちろん、科学も人生に欠かせないものですが、科学のなかで不可欠なのは初歩的なものだけです。科学的な観察や理論は、最初期の旧石器時代に道具が作られたさいにも、すでに必要とされていました。人類が存続していくためには、そうした初歩的な科学だけで十分だったのです。その後の科学の長足の進歩は、生存という目的からみれば、無用の長物でした。しかも、その進歩は人類の自滅すら招きかねないのです。 Tweet