投稿者:蘭夢 投稿日:2016年12月13日(火)01時00分31秒   通報
ひとつの誤解。

それは、○○しなければならない。

お題目をあげなくてはならない。
折伏しなければならない。
広宣流布しなければならない。
山本伸一にならなければいけない。

それは、違うということだ。

体感無き信心は、偽物であり、不毛だ。

先生は、このようなこともおっしゃっていた。
信心とは、御本尊様との恋愛みたいなものだよ。

また、戸田先生は、究極の折伏とは、何か
誰が何と言おうが、もう信心しかない。それしかないと腹を決めることだと。

理屈ではない、損得でもない。

お題目をあげたくてしょうがない。
意識しなくとも、気が付けば、信心の話をして、気が付けば折伏していた。
広宣流布したい。どうしてもしたい。みんなが幸せになってほしい。

そういう大感情。

恋愛がそうであるように、好きという感情に、理屈はない。

同志を会員を友人を護りに護りたい、その一念は、ある意味、恋愛と同じく、どうしようもなく抑えがたい感情である。

その一念で闘い抜くことだ。

その時、師匠も同じ心、また、大聖人も同じ心、仏とは、その一念にあることに気が付く。
それに気が付けば、いかに仏が衆生を想っているか、師匠がいかに弟子を想っているか。
そのことに気付くことができる。
同志を会員を友人を護りに護りたい、その強き一念は、生命現象として反転し、己心に師匠の、仏の慈悲の心を浮かび上がらせることになる。
先生も同じだったんだ、大聖人も、仏も、同じだったんだと気が付けば、恋愛でいうところの相思相愛。
その時、師弟不二となる。

恋愛で言うならば、愛されているとわかれば、人生バラ色、毎日が楽しくてしかたがない。踊りだしたくなるだろう。

信心の歓喜も同じ、師匠の、仏の慈悲がわかれば、毎日が楽しくて仕方ない。だから地涌の菩薩は、踊り出でるのだ。

一言でいうなら、楽しくなければ本当の信心ではない。

君は、日々、そのように歓喜しているだろうか。