2016年12月13日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年12月13日(火)01時55分17秒 通報 くぼたてつ栃木の仏敵退治久保田哲様 >ご本尊に向かっている時は広宣流布のこと、先生のこと、学会のことを祈って居ります。 しかし仕事をしてる時、家に居るとき等、他の時間はどうだろうか?人と会っているとき?どうだろうか?と考えさせられます。< ::::::: 何事にも広・略・要があります。当然祈りにも広・略・要が存在し、肝心要を外した祈りでは「わかっていない」ということになります。我々仏法者は何のために生まれてきたのか。それは、「折伏するため」に生まれてきたのです。地涌の菩薩であることを自覚するということは、折伏するために生まれてきたことに気づくことです。そうすると、広宣流布こそが肝心要の祈りであることがわかります。その祈りが要となった時に、すべてが合致します。 広宣流布という肝心要の祈りの上に、様々な自身の悩みや叶えたいこと(広・略)を自由に祈ること。これが日蓮仏法です。折伏するために生まれてきたと決めれば、地涌の菩薩の一念となり、人生に起こる艱難辛苦すべてが、折伏の糧となる。ことごとく功徳に変わるわけです。肝心要の祈りがなければ、祈りが叶わなかったり、思ったよりも功徳が出ていない場合、嘆きとなり、不信となる。 艱難辛苦を、仏の御計らい、御仏智ととらえていくのが信心です。うまくいくこといかないこと、すべてを折伏の糧とする。苦しみは苦しみのまま、楽しみは楽しみのまま、折伏の糧とするのが智慧であり、価値創造です。人生が、自分の思った通りに進んでしまったら面白くない。想定を越えてこそ人生であり、どう転ぼうとも、折伏するために生まれてきたという一念さえあれば、勝利です。 すべてが折伏です。上が狂えば、下が折伏する。下から上を動かすとはそういうことです。創価学会は上よりも下が偉い。上が増長したら、容赦なく下が折伏する。それでこそ仏意仏勅であり続けることができる。そして折伏とは慈悲であり、どこまでいっても相手を救うための行為です。相手をやっつけるためではない。やっつけるためというのは、ただの修羅界です。 権威主義を折伏し、人間主義へと転換する。それが、折伏精神を体現した、地涌の菩薩の生き方です。安易な功徳論は、かえって不信を増長させる。肝心要(広宣流布・折伏)を、骨の随まで染みこませる日々の題目こそが重要です。その本物の土台の上に、功徳は咲き誇る。安易な功徳論に堕し、自身の祈りが肝心要になってしまうと、信心がわからなくなる。 肝心要が、自分なのか、広宣流布なのか。自分を越えるためには、折伏するために生まれてきたと決めること。これがキーワードです。私はこのことに気づくのに、20年以上かかっています。気づきこそが成長であり、功徳です。これからも大いに功徳を頂戴し、共々に成長していきたいものです。 Tweet