2016年12月10日 投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月10日(土)20時25分48秒 通報 池田大作創価学会名誉会長 試練を共有してこそ,幸福も共有できる 「いつも太陽の光に顔を向けていることです。そうし たら,目から影は消えるでしょう!」有名なヘレン・ケラー女史の言葉で ある。21世紀になって3年目の新年。内憂外患というべきか,明るい話題 は少ないかもしれない。 しかし,まっくらな闇の中から光を生み出して生きた「三重苦の聖女」 の言葉は,私たちに勇気をくれる。「元気をだしなさい。今日の失敗では なく,明日の成功のことを考えるのです」「幸せの扉がひとつ閉じるとき, 新しい扉がまたひとつ開くのです。それなのに,しばしば私たちは,閉じ られた扉を長く見つめすぎて,私たちに向かって開かれている扉を見ない のです」 昨年初め,私は埼玉新聞に寄稿させていただき,その際,ヘレン・ケラ ー女史と,彼女が尊敬していた埼玉出身の「盲目の大学者」塙(はなわ) 保己一(ほきいち)先生について言及した。その後,埼玉新聞社から 塙正一氏の著作『奇跡の人・塙保己一ヘレン・ケラーが心の支えとした 日本人』(埼玉新聞社刊)を贈っていただいた。どちらも,今の時代に, 豊な心の光を送ってくれる好著である。なかんずく,アメリカと埼玉の 「ふたりの奇跡の人」が,ともに「母の愛」を大きな支えとして行き抜 いたことに,私は感銘した。そこで,重ねて触れさせていただきたい。 ☆ヘレン・ケラー女史は,2回,埼玉の浦和会館で講演した。 1937年(昭和12年)には,こう語っている。「わたしは,今日,この 会場に特別の思いをもってまいりました。それは,この埼玉県がわたしの 尊敬する塙保己一先生の生まれ育った郷里であるということを聞いていた からです。わたしがまだ小さいとき,母は塙先生のことを,繰り返しこう 話してくれました。『ヘレン,日本には,幼いときに失明し,しかも点字 も何もない時代に,努力して学問を積み,一流の学者になった塙保己一と いう人がいたのですよ。だから,あなたも今は苦しいかもしれないけど, 努力すればどんなことでも必ずできるのです。塙先生を目標にがんばって ごらんなさい』と。時にはくじけそうになったこともありましたが,この 母の励ましによって,現在の私があるのです」(『奇跡の人・塙保己一』 から)塙保己一先生については,あらためて言うまでもないが。江戸時代の 後期,わが国最大の史料集『郡書類従(ぐんしょるいじゅう)』を編さん した大文献学者である。この偉業がなければ,古今の貴重な書物の数々が 永遠に失われてしまったはずである。字を覚える前に失明したにもかかわら ず,一度聞いたことは完ぺきに覚えるという記憶力によって,正編530巻, 続編1150巻もの叢書を編んだ(続編は死後に完成)。「世界一の読書家」 と呼ぶ人もいる。 武蔵国児玉郡保木野(むさしのくに・こだまごうり・ほきの=現在の埼玉県 児玉町)の農家に生まれ,満の6歳の年に失明。お母さんは名医を求めて, 遠い藤岡(現在の群馬県藤岡市)へも,わが子を背負っていった。失明の 5年後には,そのお母さんも亡くなり,息子の将来を悩んだお父さんが江戸 に送り出したのである。 14歳の少年の少ない荷物の中には,亡くなったお母さんの手作りの小銭入れ があった。中身は,わずかに「そば一杯半」分のお金しか入っていなかった。 しかし,母の慈愛がいっぱいに詰まった巾着であった。少年は,江戸に出て からも,挫折の連続であり,自殺未遂にまで追いつめられた。 『塙保己一の生涯』には,そのシーンが見事に描かれている。前途に絶望し た保己一少年が,まぶたの裏にお母さんを描きながら,深い淵に身を投げよ うとした。その瞬間のこと,「胸で合わせた手に巾着が当たった。『おっ母 さんっ』」。そして彼は我に返った。その後,師匠の聡明な配慮のおかげで, 少年は才能を存分に発揮していくことになる。お母さんの形見のこの小さな 巾着は,終生,大切に守り通された。今なお,児玉町の塙記念館に保存され ているそうだ。日本とアメリカの「闇を光に変えた人」は,ともに,お母 さんの慈愛を一生涯,忘れなかった。だれが自分を見はなそうとも,自分を 抱きしめ,励まし続けてくれた母。だれが「この子はダメだ」と決めつけ ようとも,自分を信じ,自分をこの世の「宝」として,いつくしんでくれた 母。この母の愛を信じきれたからこそ,どんなときにも「生きていこう」と いう力がわいたのだと思う。生きる上での根本的な自信を持てたのだと思う。 今,簡単に人を傷つけたり,人を切り捨てようという弱肉強食の世の中である。 しかし,母の愛はちがう。家族の愛は違う。障害があればあるほど,問題が あればあるほど,強く大きく燃え上がる。☆私は,ハワイの州知事を長くされ ていたジョージ・アリヨシ氏と何回かお会いした。アリヨシ氏が両親の祖国・ 日本にきたのは,終戦直後,占領軍の通訳としてであった。東京は焼け野原 だった。最初に言葉をかわした靴磨きの少年は,ひどくおなかをすかせていた。 アリヨシ青年は,そっとサンドイッチを手渡した。しかし,少年は,受け取っ たサンドイッチを食べようとしない。大事そうに箱に入れた。 「どうして食べないの?死ぬほど腹がへってるんじゃなかったの?」「でも・・・ マリコに持って帰ってやりたいんだ」「マリコって?」「妹だよ。3歳なんだ」 。そう言った少年も,まだ7歳であった。貧しさのなかで燃え上がった家族愛で ある。一方,豊な物質生活のなかで「家庭崩壊」や,「家族解体」が論じられ 始めて久しい。ヘレン・ケラー女史は,「人格は,安易さと静けさのなかでは 鍛えられません。ただ,試練と苦悩の体験を通してしか,魂は強くなりません」 と言ったが,「家族の絆」も同じなのかもしれない。試練を共有してこそ,幸福 も共有できるのであろう。ヘレン・ケラー先生と塙先生を偉大だと思う焦点の ひとつは,両親と師匠から注がれた慈愛を,自分のことだけにとどめることなく, 社会の多くの人たちに広げて,返していった生き方である。川を大海へと広げる ように――。ふたりとも,後進の人々のために尽くし抜いておられる。いわば 「開かれた家族愛」である。その崇高な姿から学んで,私たちは未来に生きゆく 子どもたちへ,母のごとき愛を届けていきたい。「子どもを救え!」―それを, すべての大人が「21世紀の第一の優先課題」とすべきではないだろうか。世界 では今も,地雷で死んだり,手足を失う子どもが後をたたない。21世紀の初め まで戦死者の多くは軍人だった。しかし,その後は,子どもや女性を中心と する一般市民が90%になった。 20世紀は「最大に母と子を犠牲にした世紀」だったのである。現在,世界の 「4歳までの子ども」のうち,栄養状態が極めて悪い子どもは,1億5千万人。 毎年,1千万人以上が「栄養不良」や「予防できる病気」で死んでいく。 そのうち半分は生後1ヵ月にならない赤ちゃんである。 しかも世界に,この子らを救う経済力がないわけではない。世界の総所得の 「1%の3分の1」(約1千億ドル)を,安全な飲み水など基礎的な社会サー ビスに使えば,世界のすべての子どもに健康な環境を用意できる。また,世界 の軍事費の「わずか1%」があれば,世界中の子どもたちを学校に行かせる ことができるという。物資が足りないのではない。先端技術が足りないの ではない。政治的な意思が足りないのである。慈愛が足りないのである。 生命を守り育む「開かれた家族愛」が,世界を動かす原理になっていない のである。一家でいえば,大人が飽食しながら,子どもたちを飢えさせ, 学校にもやらずに働かせて,病気にさせているような状況といってよい。 その意味でも,21世紀を「家族愛の世紀」「地球家族の世紀」にしなけれ ばならないと私は信ずる。それは慈愛の力で,すべての人の生命から最高の 可能性を引き出していく世紀である。子どもたちは「鏡」である。 大人の生き方を映す「鏡」なのである。一家にあっても,世界にあっても。 ☆私はインドのマハトマ・ガンジーの孫,アルン・ガンジー氏(アメリカの 「ガンジー非暴力研究所創立者」と親交を結んでいる。アルン氏の父マニラ ール氏は,マハトマの後継者として,世界で最も人種差別の激しい南アで 差別と戦った「非暴力の闘士」であった。それは,アルン氏が16歳の時の 出来事である。お父さんを,30キロ離れた町まで車に乗せていった。お父さ んが町で会合に出ている間に,買い物をし,車の修理をする約束だった。 アルン少年は急いで修理を頼むと,映画館に飛び込んだ。 夢中で観ていた。気がつくと,待ち合わせの時間を30分もすぎていた。 あわてて車を引き取り,駆けつけた。心配して待っていたお父さんに, つい「車の修理に時間がかかって,待たされた」と,うそを言って しまった。お父さんは,だまされなかった。すでに修理屋に電話して いたのである。それなのに,叱らなかった。父は言った。「本当のこと をいう勇気がない人間に,私が君を育ててしまった。私が間違っていた のだ!私の何が間違っていたのか。それを考えるために,私は歩いて 帰る」とっぷりと日は暮れ,一面のサトウキビ畑で,街灯もなければ, 道も舗装などされていない。ぬかるみの道を,父が黙々と歩く。少年は 後ろから,父の足下へヘッドライトで照らしながら,ついていくしか なかった。家まで5時間半かかった。「父が苦しみ,悲嘆にくれて歩いて いる姿を見て,私は『二度と,二度と,うそはつくまい』と心に刻み ました。もしも,この時,父から怒鳴られていたならば,きっと私は肩を すぼめただけで,また同じようなうそを繰り返したでしょう」と ケルン氏は振り返る。「非暴力」とは,単に暴力を使わないというだけ ではない。暴力は問題や対立の原因を「人のせい」にするところから生ま れる。非暴力とは,その反対に,「まず自分が変わろう」とする生き方 なのである。そういう心があれば,社会も家庭も,どんなに平和になる ことだろう。☆だいぶ前に,埼玉の友と夏目漱石の文学を語り合った思い 出がある。漱石は,友人の正岡子規に誘われて大宮公園に行ったことも あるという。晩年の自伝的作品『道草』では,夫婦の心のすれちがいが 描かれている。漱石の分身である大学教師の健三と,高級官僚の娘である 妻・と住(すみ)。世間の目には,何の不足もない家庭と見えたかもしれ ない。だが,二人の間は,いつもぎくしゃくしていた。ある時,健三が, 家計の足しにと思って,アルバイトをする。きっと妻は喜んでくれるだろ うと期待して,その給金を渡すと,案に相違して「その時細君は別に嬉し い顔もしなかった」。健三は傷つく。しかしお住のほうでは「若し夫が 優しい言葉を添えて,それを渡してくれたなら,きっと嬉しい顔をする ことが出来たろうにと思った」のである。一方,健三のほうでは「若し 細君が嬉しそうにそれを受け取ってくれたら優しい言葉も掛けられた ろうにと考えた」。こうして互に相手を決めつけ,互に不満を積もらせ ながら,結局,「二人とも現在の自分を改める必要性を感じ得なかった」。 漱石は,夫婦の微妙な心理の綾を,このように描いている。目は見え ても,目の前にいる家人の心さえ,なかなか見えない。目の前の子ども の可能性が見えない。未来に向かって洋々と開かれた「人生の新しき扉」 が見えない。見えないで,だめだと決めつけ,あきらめている。 そういう人生では,もったいないのではないだろうか。塙保己一先生の 有名な逸話がある。ある夜,弟子たちに講義をしていると,風が吹いて, ろうそくの火が消えた。真っ暗になり,あわてる弟子たちに,先生は微笑 んで言ったそうである。「いやはや,目が見える人は不自由なものですね」。 ヘレン・ケラーさんも,このエピソードを愛しておられたという。 女史は言った。「一番素晴らしく,一番美しいものは,目で見ることも, さわることもできません。それらは『心で感じる』ほかないのです」。 新しい1年。そういう心の眼を磨いていきたいと思う。 始まったばかりの21世紀を,力と力がぶつかり合う荒廃の世紀にしては ならない。子どもをはじめ弱い立場の人を最優先して,みんなんで守りゆく 「家族愛の世紀」「母と子の勝利の世紀」にしたい。夢物語だとあきらめ さえしなければ,不可能をも可能にできる。そのことを,アメリカと, そして埼玉の「ふたりの奇跡の人」が教えてくれているからである。 埼玉新聞2003年1月7日より Tweet