②菩薩の使命。(特に本職さんへ)

投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月24日(水)14時59分52秒

また、別の御書では、同じ文を引かれたあと、こう仰せである。
「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ねるが如くなるべしはかなし・はかなし」(御書一〇五六頁)

――謗法を責めないでいて成仏を願うことは、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるようなものである。はかないことである。はかないことである――。

悪を容認する者は与同罪(同じ罪をともに受けること。「与」は共に、の意)で、悪とともに「地獄」となり、悪と戦い、破ってこそ「成仏」となる。

それが仏法の基本である。
私どもは「地涌の菩薩」である。
その尊貴なる使命を果たしゆく時、どれほどの大福徳と大境涯を開きゆけるか、計り知れない。

また、指導者論としてみれば、「善人を悩乱」させるような《民衆の敵》に対しては、断固たる態度で《民衆を守る》戦いに立たねばならない。
厳然と民衆を守ってこそ指導者なのである。

「正義の批判」と「感情の悪口」は、まったく違う。
しかし多くの場合、その内実も見ず、混同されるようだ。
また悪人ほど、自分はしょっちゅう主張を変えて、その場その場で善人を悪口するくせに、いざ自分が何か言われると、気が動転して「悪口は良くない」などと言いだす。
さらに、権威に弱い社会においては、権威よりも正義を重んじる人間は、どうしても迫害にあうことになろう。

御書に次のような問答が記されている。
「問うて云わく法師一人此の悪言をはく如何」(御書八九八頁)
――問うていうには、なぜ法師(日蓮大聖人)一人だけが、この悪言をはいているのか――と。

大聖人は、歴史もあり、当時、多くの人々が信仰していた「真言」の邪義を挙げられ、権威ある高僧と仰がれていた弘法等の過ちについて指摘された。

それに対し、人々がこぞって、「とんでもない悪口だ。一人だけなぜ、そんなことを言うのか」と非難するであろうことも予想された。
実際、そのとおりであったであろう。

しかし大聖人は、こう仰せである。
「日蓮は此の人人を難ずるにはあらず但不審する計りなり、いかりをぼせば・さでをはしませ」(同頁)

――日蓮はこの(邪義の)人々を非難しているのではない。ただ不審しているだけである(「これは、おかしい」と疑問を口にしているだけである)。それが悪いと腹を立てられるなら、そうされるがよい――。

経文に照らして、《おかしい》ものは《おかしい》のである。
その疑問を、そのまま口にすることが、どうして「悪言」「悪口」になるのか、それは正法を守る「善言」であり、「正言」なのである。

権威をカサに正当な疑問さえ圧殺しようとする考え方への、明快な切り返しであられる。
疑問に、なんら正面から答えようとせず、逆に頭に血がのぼったかのように抑えつけ、封じ込め、正義の人をなきものにしようとする。
大聖人は、一生涯、そういう権威の悪と戦われた。
ならば、真の門下である私どもの進むべき道も明らかである。
【婦人部・青年部合同協議会 平成三年九月二十一日(大作全集七十八巻)】