2016年12月6日 投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月 6日(火)06時33分10秒 通報 山崎鋭一さん──初代欧州議長 2006.8.6欧州に平和と人間主義の旗 広布の使命へ先駆のドクター北極に光まばゆき大月天はるか地球の広布望みて 私が初めてヨーロッパへ向かう機中、北極付近の高度一万メートルから仰いだ 月光は、冴えわたる宇宙の知性の如く輝いていた。遠大な一閻浮提の広宣流布 の未来を展望しつつ、北欧デンマークの首都コペンハーゲンに降り立ったのは 、一九六一年(昭和三十六年)の十月五日、早朝七時過ぎのことであった。空 港で、蝶ネクタイ姿の壮年が、人なつっこい笑顔で迎えてくれた。その人こそ 、パリから駆けつけた、山崎鋭一博士であった。この時、私たちは、デンマー クを起点として、西ドイツ(当時)、オランダ、フランス、イギリス、スペイ ン、スイス、オーストリア、イタリアと、十八日間で九カ国を回った。造られ て間もない“ベルリンの壁”の前にも立った。欧州を分断し、民衆を引き裂く 、権力の魔性の壁に怒りがこみ上げた。私は、山崎さんたちに強く語った。「 三十年後には、この壁は必ず取り払われているだろう!」欧州広布は、東西冷 戦の“その先の世界”を見つめて出発したのである。旅半ばのロンドンのホテ ルで、私は言った。「山崎さん、欧州全体の連絡責任者をお願いしたいのです が、いいですか」間髪をいれず、力強い声で「はい!」と返事が響いた。この 呼吸である。当時、全欧州でも、会員は約十世帯にすぎなかった。彼自身も、 仕事で渡欧したのは、私の到着の十日前である。次の訪問地マドリードで、彼 が「今後どうしたらよいでしょうか」と尋ねてきたのも、当然といえば当然だ ったろう。しかし、私は断固として手を打った。一人への布石が、千人にも万 人にも広がっていくからである。「先駆者は辛いものです。だからこそ、耐え て法を広める人の功徳は、あまりにも大きい」私の期待に、山崎さんの顔が、 ぐっと引き締まり、誇りと決意が光った。◆真の友人として私が、山崎さんと 初めて会ったのは、一九五九年、信濃町の学会本部であったと記憶する。妹の 秋山栄子さん(現・SGI総合女性部長)に伴われて来たのである。彼は新潟 医科大学(現・新潟大学医学部)で博士号を取得し、ハーバード大学や東京大 学の付属病院で研究してきた、三十代半ばの最優秀の医学者であった。家族で 、彼だけが未入会という。「本当の友達はいますか」と聞くと、「いません」 と率直な答えであった。飾らぬ人柄に、好感がもてた。私は「真の友人として 、一緒に生き抜きましょう。あなたのことは引き受けました」と言った。その 言葉を、彼は、終生心に刻んだようである。この年、彼は入会した。妹と共に 、広宣流布の麗しき人生の並木路を歩み始めたのである。さらに妹の尽力もあ って、女子部の良子夫人との良縁に恵まれた。当時、彼は大分県・別府の病院 で副院長を務めていたが、甲状腺ホルモンの研究で注目され、海外の大学等か らも次々に招聘(しょうへい)が舞い込んできた。パリにある世界的な研究・ 教育機関コレージュ・ド・フランスへの雄飛を私に報告してくれたのは、一九 六一年の夏であった。「秋には、私もパリに行きます。その時は、一緒に各国 を回りましょう」そう語りながら、私の胸には“ドクター山崎”を軸に、欧州 広布の構想が、大きく動き始めたのである。山崎さんは、医学者として順風満 帆(じゅんぷうまんぱん)であり、経済的にも恵まれていた。だが、仏法を知 るまでの彼の心は、何不自由ない経歴とは裏腹に、どこか空虚な思いに支配さ れていた。生きる意味を渇仰していた。禅やキリスト教を試したりもしたが、 不安と焦りがつのるばかりであった。その彼が、妙法を受持し、友のために動 き、祈り、御書を拝するなかで、仏法の偉大な法理に触れた。「肉眼(にくげ ん)はしらず仏眼(ぶつげん)は此れをみる、虚空と大海とには魚鳥(ぎょち ょう)の飛行するあとあり」「凡夫即仏(ぼんぷそくほとけ)なり・仏即凡夫 なり・一念三千我実成仏これなり」(御書一四四六ページ)──目には見えな くとも、宇宙と自然と人間を貫く大法則がある。その生命の尊極の道を明快に 説き示したのが仏法である。彼は御本尊に唱題しながら、偉大な「普遍の法」 を実感し、随喜の涙を抑えることができなかった。のちに、ヨーロッパの多く の友が、自己を確立しゆく精神的な基盤を求め、悩んでいることを知った彼は 、「自分が苦悩した思索が、すべて生きている」とわが使命の不思議さを痛感 するのであった。忘れ得ぬ欧州統合の父クーデンホーフ・カレルギー伯爵は、 強く訴えていた。「平和の領域は一歩一歩つつしか占拠できないものであって 、現実に一歩前進することは空想で何千歩進むより以上の価値がある」山崎さ んはコレージュ・ド・フランスで、アメリカの大学から来ていた教授と、共同 研究に打ち込んだ。最先端の医学の開拓とともに、彼は誠実に欧州広布へ行動 を起こした。良子夫人と共に、最初は日本人の友人づくりから始めた。やがて 辞書と首っ引きで、仏法を説明するフランス語のチラシを作成し、フランス人 にも対話を広げていった。自宅で開く座談会はいつも三、四人だったが、粘り 強く続けた。忍耐こそ誠実の試金石である。二度目の訪欧の時期を、私は一九 六三年の一月とした。欧州の冬は厳しい。そこで戦う同志の苦労を知っておき たかったからだ。この折、ヨーロッパ総支部がスタートし、山崎さんが総支部 長に、良子夫人が初代パリ支部長に就いた。この時、パリ支部は十八世帯、全 欧州では約百世帯に発展していた。さらに私は、山崎さんの小さなアパートに お邪魔した。食卓に「欧州広布」の旗を立て、同志の心づくしの正月料理を、 皆で囲んだことも懐かしい。ご夫妻の狭い部屋が、欧州総支部の拠点となり、 さらに欧州本部の拠点となった。「名前は立派に変わっても、部屋の狭いこと は変わりません」と朗らかに笑う彼であった。終生、住まいも、生活も、質素 そのものであった。◆大事故を乗り越えやがて、大きな転機が訪れた。共同研 究者である教授がアメリカに帰国することになったのである。山崎博士を信頼 する教授からは、一緒にアメリカで研究しようと強く勧められた。断れば、も うその研究はできない。彼は、決然とパリに残る道を選んだ。「私は広宣流布 のために欧州に来たのです」と。ただ、長い学究生活への愛着は容易に断ち難 く、無意識に研究室の方へ歩いていることもあったようだ。そうした未練の影 を跡形もなくぬぐい去ったのは、一九六六年に遭遇した自動車事故であった。 地方指導からの帰りに、運転を誤って立木に衝突し、夫妻とも重傷を負ってし まったのだ。まさに、奇跡的に助かった大事故であった。私は「転重軽受」を 確信し、わが弟子の回復を祈り、再起を真剣に祈った。手術では、大量の輸血 を受けた。それはフランス人の血であった。自分はフランス人に命を助けられ た──その感謝が彼を変えた。広宣流布こそ、わがフランスへの恩返しだ!半 年後に退院すると、複雑骨折した足を引きながら、会員を訪ねてパリ中を歩く 姿が見られた。山崎さんは、「事故を起こして申し訳ありませんでした。しか し、先生からいただいた車が丈夫だったので、生命が守られました」と述懐し ていた。そして七三年、彼は欧州の初代議長に就任した。ある時も、彼は声を 強めて語ってくれた。「私は、この欧州で戦い、死んでいきます!」その言葉 通り、山崎夫妻は国籍を取得し、フランス人となった。なお、彼に渡米を勧め てくれた教授は、ノーベル医学・生理学賞に輝いている。それを心から祝福す る彼には、なんの悔いもなかった。妻も、母も、妹も、そして同志も、そんな 彼を最高に誇らしく思った。妙法は、一切衆生の苦悩を癒す「大良薬」である 。山崎さんは、その妙法を持った「信心の名医」「生命のドクター」「広宣流 布の大博士」として、毀誉褒貶(きよほうへん)を超え、欧州を走り続けたの である。◆真実を見る眼一九八三年秋、八王子の東京富士美術館の開館を飾り 、数々の名画に彩られた絢爛(けんらん)たる「近世フランス絵画展」が開催 された。この展覧会の実現は、大美術史家ルネ・ユイグ氏との友情の結晶であ った。その陰で重要な懸け橋となってくれたのが、深い親交をもつ山崎さんで あった。ある時、彼は晴れ晴れと述懐した。「欧州の本物の文化人は、『質』 が違います。ほとんどがナチスと戦っています。命をかけて戦う文化人なので す。だから、社会における重みも違うのです」ユイグ氏は、ナチスの侵略に対 して、命がけで人類の至宝であるルーブル美術館の絵画を守った文化の闘士で ある。思えば、大歴史家トインビー博士も、行動する作家マルロー氏も、ロー マクラブ創始者のペッチェイ博士も、ファシズムと戦った方々であった。みな 正邪を見極める眼を持っていた。自分が確かめたことは、他人から何と批判さ れようが、紛動されなかった。それが、創価学会への正視眼(せいしがん)の 評価にもつながっている。“こうした文化人との交流で、私の窓口となり、通 訳となって貢献してくれたのが、山崎博士であった。邪悪と戦い抜くのが文化 人◆正義は学会に!トインビー博士は叫んだ。「人間の魂はいずれも、善と悪 とが支配権を争って絶えず戦っている、精神的戦場である」と。仏法も勝負だ 。永遠に、仏と魔との闘争である。一九九〇年の師走、邪宗門が広布破壊の本 性を露(あらわ)にすると、欧州でも学会乗っ取りを画策する、忘恩背信の幹 部が現れた。山崎さんは攻防戦の渦中に飛び込んだ。体を張って真実を師子吼 した。「正義は学会にしかない!欧州広布は、先生によってつくられたのだ。 どこまでも欧州は、先生と共に行くんだ」邪悪とは命をかけて戦うのが文化人 である。そこに山崎さんの誇りがあった。ユイグ氏も、正義の言論の矢を放っ てくださった。「創価学会が、仏教の深遠な価値とその世界性を宣揚し、精神 の向上に基づく平和主義を、仏教の名において世界にもたらそうとして闘って いることに対し、我々は感謝しなければなりません。権威と物質的な利害から の低劣な争いが、この賞讃すべき高揚と輝かしい成功とに足枷(あしかせ)を はめようとするのなら、だれの目にも嘆かわしいことでありましょう」真実の 知性から見れば、権威と嫉妬と貪欲な邪宗門など、時代錯誤の残骸に過ぎなか ったのである。「人間が意地わるなのは、やはり知性が足りないからだ」とは 文豪ロマン・ロランの鋭き洞察であった。不思議にも、ほぼ時を同じくして“ ベルリンの壁”が崩壊し、民衆を侮蔑する傲慢な権力も倒れた。東欧民主化が 進み、欧州は新時代を迎えていた。だからこそ、どこまでも一人を大切にする 、仏法の人間主義がいやまして光り輝く時を迎えたのだ。欧州合衆国を夢見た 文豪ユゴーは叫んだ。「人を作れ、人を作れよ」──一九九四年、欧州議長を 長谷川彰一さん(現・欧州最高参与)に引き継ぎ、名誉議長となった山崎さん は、一段と後継の育成と激励に心血を注いだ。南仏トレッツの欧州研修道場で は、各国の研修会を年間六十回以上も行い、七十歳を超えても、そのほとんど を担当した。早朝、パリを出て、空路午前九時開始の研修に駆けつける強行軍 もたびたびだった。聖教新聞に載った私のスピーチ等を、豊かな語学力を駆使 して、どんどん伝える。それが欧州メンバーの大きな力となった。また彼は、 学生部などの若いメンバーと、共に御書を学んだ。準備には、よく夜を徹した 。そこから今日の青年部や各方面の中心者が育っていった。皆が山崎さんを、 良き兄の如く、父の如く、慕い続けた。◆最高の人生なりトレッツとの往復、 引きも切らない個人指導、深夜までの翻訳作業、それにもかかわらず誰よりも 早く会館に行き、唱題を重ねた。青年の如く、精力的な毎日を送っていた彼が 入院したのは、二〇〇〇年六月初旬であった。以前から前立腺肥大の症状があ り、医学博士の彼は、すぐに手術を受けることに決めた。手術後ほどなく退院 し、自宅療養となった。下旬には、訪日する同志に、「ますます元気で頑張り ますから!」と、私への伝言を託しておられた。常に「学会のおかげで、最高 に充実した人生を生きることができた。池田先生のもとで戦えたことが、一番 の幸せであり、名誉だ」と家族に語る彼であった。容体が急変したのは、六月 二十九日。走り続けた彼には、新たな生命へ、しばし休息が必要だったのかも 知れない。突然の心不全であった。享年七十六歳。前日には、元気に私の著作 の翻訳計画を作成していた。ただ未来を見つめて。欧州の広布先駆の君去りぬ その名三世に薫り残らむ今や欧州SGIは、七万人を超える平和の大連帯とな った。ロシアや旧東欧諸国にも、地涌の同志が生き生きと活躍している。彼は 今、欧州研修道場にほど近い、太陽に白く輝くサント・ビクトワール山(聖な る勝利山)を仰ぐ墓地に眠っている。勝利の山と、大勝利の人生を語り合うか のように──。ヨーロッパ広布の黄金の柱として生き抜いた山崎さんは、三世 十方の仏菩薩から至高の「生命の大勲章」を贈られているに違いない。そして 無量無辺の諸天善神の大喝采に包まれた、あの山崎博士の天真爛漫な笑顔が、 私の生命から離れることは永遠にない。妙法のため、欧州の友のために戦う山 崎さんに贈ろうと思って書き留めた、私の大好きな箴言があった。正義の言論 闘争によって、フランス大革命の思想的先駆となったルソーの言葉である。「 わたしは、真理のために受難するということほど偉大で美しいことを知らない 」「正義と真理、これこそ人間の第一の義務である」この言葉を贈ろうと、私 は思っていた。──日本、世界のドクター部の皆様のご活躍に、心から感謝を 捧げて。 山崎鋭一(やまざき・えいいち)1923年12月に新潟で生まれ、 茨城の水戸で高校生活を。1959年11月に入会。61年、医学の研究のた め、フランスへ渡る。初代欧州総支部長、初代欧州議長、欧州名誉議長などを 歴任。2000年6月に逝去。享年76歳。良子夫人は現在、欧州名誉顧問。 Tweet