投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月 4日(日)07時11分3秒   通報
こんにちは 北伊丹本部 金岡支部 大鹿地区の山下安之です。最後まで頑張りますので宜しくお願い致します。

入信40年という節目の時に、大きな体験をさせて戴きました。今回ほど、私にとってこれほど、大きな病気は有りませんでした。

定年を終え再就職先も決まり、準備万端の時、昨年11月末に、風邪気味で文化会館や地区等の会合へ行くのもつらくなり、かかり付けの医院で診てもらいました。診察結果は、貧血がひどく、他の病院を紹介され、再検査の結果、即入院との指示にビックリ、翌12月9日に入院しました。

これから如何なる苦痛と、恐怖が待ち構えているかなど、誰知る由もなく、自分自身そんなに重い病気とは露知らず、簡単に治ると思っていました。それからは、輸血をしながらの検査検査の日が続きました。

入院二週間後に、熊本の兄弟達が揃って見舞いに来たのです、おかしいな何で皆来たんだろう、そんなに悪いのかなぁ、ぐらいの甘い考えでした。妻は主治医から、「今後、長くて2年、最悪の場合は年を越せるかどうか分からない」という厳しい状況との説明を受け、気もくるわんばかりだったようです。

病名は白血病の中でも最も治療方法がない、最悪の《骨髄異形性症候群、再生不良性貧血》という血液の癌だったのです。

すぐに家族は揃って幹部に指導を受け、信心根本と心に決め、一致団結して立ち向かったようです。
抗癌剤の点滴が開始されたのに対して、心の中で“俺は癌か、なぜなんだ?”と悩み苦しみ、自問自答しながら、この信心で自然治癒力を発揮させ結果を出そうと決意するものの、心の動揺は隠せませんでした。

それならばと100万遍の題目に初めて挑戦しました。胸部から採血、点滴、輸血用の管を通して抗癌剤の点滴は4日間続き、いよいよ癌との闘いの始まりでした。今までの事が走馬灯のように駆け巡るなか、12月27日夜8時頃意識が薄れていき、主治医、看護婦さんの慌てるさまが、夢の世界のようへと変わっていったのでした。

主治医から、「家族を呼ぶように」と聞いた子供達は、母親に知らせ、ビックリした妻は、取る物も取り敢えず駆けつけて来たようです。脳波やCT検査等、必死で行われたようでしたが、私は知る由も有りません。

その時主治医から、「意識不明の状態が3回有れば、植物人間になる可能性が有るので、治療は非常に難しい」と家族に知らされ、以後は無菌室に移されての治療となりました。感染症予防の為、体内に「菌」が付かない様に口・胃・腸・肺への治療です。抵抗力が付くまで23日間、治療は厳しいものでした。

そのような時も、多くの同志の励ましに、幾度も感謝の涙を流しました。夜はほとんど眠れないので、ベットの上で題目をひたすらあげていると、毛細血管が破れて足が黒く成るのです。それでも昼間は俳句などを作って壁に貼っていましたが、その後、御書の一節をワ-プロに書き写す事を始めたんです。

そうした正月の始め熊本から妹が駆けつけ、「40年目の信心の峠は死に物狂いで題目をあげないと乗り越える事は出来ないよ。過去からの謗法を懺悔して題目をあげないと宿命転換はないのよ。池田先生に、お手紙で近況を書くのよ、先生とパイプを繋ぐのよ、それが信心よ」と言われて、藁をも掴む思いで、必死の題目をあげ、1月11日に池田先生にお手紙を書きました。池田先生から17日にご伝言を戴いた時は本当にビックリしました。

「お手紙拝見しました、お題目をお送りします」との、ご伝言に驚きと感謝で勇気が湧き、嬉しさ一杯の時に先生から21日に、【健康長寿】の押印色紙を戴き、感動の題目をあげさせて戴きました。

翌日には、秋谷会長より、「法華経の行者の祈りのかなはぬ事あるべからず」の御書の一節の入った激励のお手紙を戴きました。

翌23日にも、N総関西長より激励のお手紙を戴き、御書の一節「いかでか病も失せ、寿(いのち)ものびざるべきと、強盛にをぼしめし、身を持し、心に物をなげかざれ」のご金言と、ご指導を戴きました。

先生がどこまでも一人の人を慈愛されているかが、この身を以て実感いたしました。“必ず元気になり、池田先生にご報告する!”と決意し、題目をあげ、退院の日を3月11日の私の誕生日と決めました。早速、池田先生、秋谷会長、N総関西長にお礼とともに決意のお手紙を書かせて戴きました。

同じ病棟には血液の病気の方ばかりです。長期入院の方が多く、退院される方は本当に希でした。“俺は違う”と自身に言い聞かせながら題目表に数を付け目標達成へ励みました。

しかし、薬の副作用と癌細胞は、とんでもない事を引き起こします。そのたびに担当医と看護婦さんはあわてふためき、「山下さんの状態は判らない。点滴も薬もどれが適合するのか、判断に苦しむ、悪いと思ってもパッと良くなるし、調子がいいと思っても急に変わるし…」と言われ、試行錯誤の治療も、輸血をしながら続きます。骨髄液等の検査は大変な中、行ないました。

2月16日の朝方、頭が割れるような痛さに、耐えかねていると、右目が飛び出すように腫れあがり、妻はビックリ“早く手当てをして!”と、看護婦にくってかかっていました。又又主治医、看護婦さん達の悪戦苦闘が始まり、私は只苦しむばかりです。そんな時に妻が心労と、風邪のため寝込んでしまいました。痛み止めの注射に座薬と点滴で乗り切るには、10日間、子供達4人が交代で団結し、次男の嫁も泊り込みで看病をしてくれました。この時も、“後1ヶ月の命”と主治医は家族に宣告したようです。

病状に応じて病室も無菌室、個室、大部屋へと移動を13回も繰り返しながらの治療でした。又薬の副作用と癌細胞の躍動です。耳鳴りと左側の頭痛です、CT検査、MRI検査、骨髄液、脊髄液の検査が繰り返し行われました。

しかし、左半身の麻痺は、完全に私を落胆させるものでした。それでも3時間5時間と題目を唱え、“実証を示さねば”と必死でした。唱題すればする程又、指がコブラガエリの状態となり、両手を合わせて押し開き、只ひたすら題目を…….2時間も、あげると元に戻るのです。
耳鼻科、皮膚科、整形外科で検査しても、何ら異常はないものの相変わらず輸血を必要とし、自分自身の血液は無く、人様の血液で命を維持している状態です。

脳を縮小させる為の点滴も24時間連続で集中的な治療でした。そんな時でもワ-プロとパソコンで調子が良い時は御書の一節を打っていました。しかし、魔の動きは急変します。今度は右足のひざから下が麻痺し、歩くのも不自由となり、補助具足を作り、それをあてがっての歩行でした、原因は癌細胞と軽い脳梗塞から来たものと、後で判りぞーっとしましたが、ここでも御本尊様の功徳で軽くして戴き、題目の力は本当に素晴らしいと実感し、尚一層の治療に専念しました。

しかし、悪い時ばかりでは有りません、調子が良い時は、気分転換のため一泊2日の外泊もでき、我が家で御本尊様の前で思う存分に題目をあげることが出来きました。同志の方は家に帰った時も、何度も激励に来て下さり、本当に幸せ者と実感し、感謝しました。

その後も薬等、色々と変えながらの治療の時、T(副会長)総県総主事が、突然病室へ、外泊の時も家まで来て下さり、「感謝の題目をあげるんだよ、」、「先生に、お応えするんだよ、広宣流布の為に頑張るんだよ」と、励げまして下さいました。“よし、やるぞ!”と題目をあげながら、調子がいい時は法戦のF取りに妻と行くなどして頑張り、目標の100万遍の題目達成も、地区、支部の同志の題目に励まされて。3月11日誕生日に達成が出来ました。

目標の退院は出来ませんでしたが、看護婦さん達が誕生祝いを花束とハッピーバースディで祝ってくださいました。“今、負けてなるものか!、ここが正念場だ!”と魔に負けない様、真剣に唱題を続けますが病魔は競います。

担当医の指摘どうり、3回目は父親の命日の3月27日に、3日3晩の胸骨と骨髄の激痛です、頭も顔も腫れあがり、見るも無残な姿に成っていました。今度は妻が泊り込みで看病にあたりましたが、起きあがることもできず、子供に抱きかかえてもらわねば、何にもできず、只ウワゴトを繰り返していたようです。主治医は妻に、「癌細胞の善玉は無く、悪玉ばかりなので覚悟する様に」と宣言されてた様ですが、私自身何も知らず、ただベットに横たわるだけでした。

体は水を異常に要求し、一日4㍑も飲むので娘が水を6ケ-スも買い込んで来ました。点滴を脳がはれない様に続けるも、次第に目がかすみ、血糖値を計れば異常に高く、平常値は60-110なのが560にも跳ねあがっていたのです、血糖値を下げるインシュリンの注射を打ち続けるも、なかなかさがりません。

癌細胞はどんどん変化して襲って来ます。心臓は肥大し肝臓に癌は転移し、肝機能は働かず腹水と肺にも水が溜まる結果となり、体内は癌細胞だらけで、もう悪く成る所がないほどでした。顔には死相が現れて、見舞いに来てくださる同志の方も、もうダメだと思われたそうです。

そんな時でも、痛みが無ければ調子を見て、法戦にも、会合にも参加させてもらいました。携帯用御本尊様を手元に、ひたすら祈り続けたのです。

明日をも知れぬ命に、妻は観念していたようです。
岐阜県にいる長男に電話で知らせると、「親父は病気で死にはせん、大丈夫生きる使命が有る。其の為に今まで信心して、題目をあげたじゃない」と言い切っていたとの事です。

3回目の発作から27日目の4月23日の検査結果では、不思議にも「癌」の細胞が無くなっているというではありませんか。担当医もビックリ何故か判らない、どうして癌細胞が消えたのか、分からないとの返事でした。

そんな苦闘の末に病魔に勝ったのです。お題目の凄さは本当です。私は不死鳥の様に甦ったのです。

2月に携帯電話の買い換えを考えていた時、長男が新型を買って来てくれたのです。ワ-プロを打ってる時、パソコンがいいなと思い、題目をあげていたら、又ノ-トパソコンを一式買ってきてくれたのにはビックリしました。ならばと、退院の日を真剣に祈りました。第二目標は“創価学会の日”の5・3を目指しましたところが、またまた願いは叶い、4月30日に退院が出来たのです。

不思議でも何でもないのです。只御本尊様に、祈り続けたのです。此れが信心です。題目です。現代医学でも判らない、自然治癒力の倍増は、御本尊様に祈る題目でした。

退院の時、婦長さんは、「絶対退院は出来無いと、先生に聞いていたのに」とビックリされ、心からオメデトウを言ってくれました。これも皆さん方の真心の題目の祈りがあったからこそ、蘇生出来たのです。同志の素晴らしさに感動し、学会員で良かったとつくづく実感しております。今ではリハビリの結果、歩行にはさしつかえないところまで、右足は回復しております。

御書に、「なにの兵法よりも、法華経の兵法を、もちひ給うべし」とあります。このご金言そのものです。
この体験を多くの人に語り、広宣流布の為に弘教と聖教新聞啓蒙に頑張り、池田先生にお応えしていく決意をしています。

今は週一回の外来検診をしていますが、完治するとの確信で、これからも祈り闘い続けてまいります。

5月21日に又も池田先生より、「お体をお大事に、お過ごし下さい」との、ご伝言を戴きました。

以上で約5ヶ月間の闘病体験を終わらせて戴きます。
私の気持ちのままの詩です。

     妙法へ
      使命はたさん
       この命
      広布の為にと
       地域に花咲け

本当に有り難う御座いました。

1999.5.23 伊丹文化会館にて発表