投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月 2日(金)19時30分54秒   通報
『野菊のごとき青春』

青木 黎子(れいこ)さん

【広布の激流に黎明の光】

一冊の日記帳がある。
題して『黎子抄』。
青木黎子さんが死の間際まで綴ってきたものである。

それを親しき友人たちが一冊の本にまとめあげた。

昭和五十一年一月二十九日、ご両親に見守られながら黎子さんは
三十五歳で逝いた。

美しき瞳。美しき心。美しき青春の人であった。

一周忌に私は、ご家族とともに学会本部で勤行をした。

そのとき、黎子さんが綴られていた日記帳の事を聞いた。美しい字で
書かれた数冊のノートを、やがて見せていただいた。

そこには、病魔との戦い、『生と死』の葛藤、信仰の素晴らしさ、友情、
自己の使命・・・等々、日々の心境が曇りなく記されてあった。

ご遺族と友人たちの意向が実り、三回忌を記念して限定出版されたのである。
その香りしたたる一冊が私の所へも届いた。
昭和四十二年から四十五年までの闘病記がある。
こんな一節が目に止まった。

『昭和四十二年.二月二十四日(金).雨
注射。今日の雨で春を感じる。
まどの外に水仙の芽が出ているのを見つける。
なんという生命の不思議さ。強さ。
あの大雪の下に、あのとき、すでに発芽していたのだ。

なんとしても治るのだ。
一年前の私は毎日” 死 “との対決だった。』

東京・清瀬の病院。
武蔵野の早春に心の嵐と戦う、けなげな同志である彼女の青春を思うとき、
私の胸は熱くなった。

学会本部に勤務していたのは、昭和三十七年後半から約四年間と記憶している。
彼女は、あまり丈夫ではない小柄な体を駆使しての、日夜、私のそばで広宣流布
への戦いの連続であった。

彼女と最初に会ったのは三十七年初夏のころである。
女子部の代表との研修会があったときに、彼女のことを女子部の先輩から聞いた。
ある銀行の人事部に勤めていただけあって、まことに聡明で、誰からも
称賛される人柄であった。

懇談の折、『今までお世話になった人は?』と聞いた。
彼女は間髪を入れず六人の姓名をすらすらと言った。ふつう姓は言えても、
なかなか名前までは出てこない。

記憶力抜群の人とみた。
入信は昭和三十一年六月、十五歳のときであった。
都立白鴎高校の出身である。また女子部の部隊長としても活躍してきた。

『黎子抄』に、当時、共に職場で戦っていた多田時子さんが、次のような
追憶の記を寄せている。『ひとたび仕事の事になると非常に責任感が強く、電話の
応対や接客にもそつはないし、字も綺麗に書けば、あれこれと、どれ一つを取り
上げても見事にこなす人でした。

また何より素晴らしいと思うことは、どんな事があっても笑顔をたやさない人柄の
よい人でした。それは又、自己に厳しい強さを持っていたからかもしれません』
当時の学会は激流のような建設期にあった。

私も朝から夜半まで、多忙の連続であった。その為もあって、彼女は庶務部で同じ
ように遅くまで、その任にあたってくれたのである。私は幾度となく彼女の健康を
心配して早く休むようにすすめたことがある。

しかし、今にして思えば、彼女は自分の短命を自覚してのことか、最後まで繁多な
職場で自己の使命を全うせざるを得ない宿命的とも言える回転であった。

夜遅くなっても朝は誰よりも早く出勤した。
表面には疲れもみせぬ素振りであったが、東京の葛飾区からの往復は、さぞや
疲れが増していったに違いない。

最後までグチひとつこぼさず、全ての作業を一つ一つこなしきって行った。
模範的な若き妙法の乙女であった。

『一月二十六日(月) 晴のち曇.

S先生、回診あり。先日聞きもらした右上葉の一番難しい空洞のことを聞いたら、
消えているとのこと。
・・・なんということか、あんなガンコな病巣が消えているなんて。
御本尊の偉大さにただただ感謝』

昭和四十五年十一月、清瀬の病院を退院。結核もすっかり治した。
再び職場に復帰した彼女は、不死鳥のごとく活躍し始めた。
しかし、定業であったのであろうか、心臓が弱り、数年して、多くの後輩たちの
星となって逝いた。

彼女は、いまはの際に、か弱い体で起き上がり、厳として題目を唱えたあと、
横になった。そして母に向かって、『私には何の悔いもありません。広宣流布に
生き抜いたのですから世界一の幸福者です』と一言いった。

亡くなる寸前、私たち夫婦はせめてものお見舞いにと、サファイアの指輪を
贈った。彼女はそれを病床で指にはめ、ことのほか喜んでくれ『私が死んだら、
この指輪をはめてほしい』と母親に語っていたという。

一週間後、母親は彼女の希望どおり、合掌したその指に指輪を飾って霊山に
送ったのである。ご両親はいまなお葛飾の地で朝夕、黎子さんの写真を見ながら、
広布の庭に活躍している。

ただ、私が胸を痛めるのは、同じ年ごろの女性が結婚し、子供を育てる姿を見た
ときのご両親の気持ちはいかばかりであろうか、ということである。
彼女の生涯は自分なりに一つの主義主張に青春を賭けた、劇のような行動であった。

それはいわゆる表舞台だけではなく、辛労多き陰の舞台にも誇り高く走り、また
美しく咲き薫った名優であったといえよう。人によって短い人生というかも
しれない。しかし、彼女は幾十歳にも通ずる輝くばかりに充実しきった、黄金の
ごとき青春の生涯と自負していたことであろう。

多くの女子部の人たちが、野菊のごとき青春であったと口々に讃えたことは、
それを証明している。生命は永遠であるが故に、彼女は生きいきとした生命を得て、
この世に再び活躍していくことを、私は信じてやまない。

(昭和55年8月21日)