投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 3月 8日(日)00時32分44秒  

大事な質問ありがとうございます。素朴な疑問の中に真理があり、私はそういった声を蔑ろにすることはしません。それが人間主義であり、創価の世界だと思っています。質問には丁寧に答えていくつもりですが、あくまでも一意見、一つの角度として捉え、yさん様の思索の糧にしていただけたら幸いです。

・精度の高い解説だとしたら改正賛成派に変わるか否か
まず、そもそも私の立ち位置は、賛成・反対というよりも、「心配派」に位置付けられます。反対というのは、大御本尊からの脱却自体が謗法であり、言語道断という立場を指すと思います。私は、大御本尊からの脱却が論理的に可能であるならば進めればいいし、無理であるならば保留もしくは中止にすればいいという考え方です。そして、現段階では「無理なのではないか」という結論であり、それを強行に推し進める必要はないのではないかと思うのです。ルネッサンスということで、パワープレイで押し切ることもできますが、それは最終手段であり、余程の切迫した状況でなければ発動してはならない。それはかえって混乱を招く行為だからです。もし仮に、完璧な論理構成で、いかなる仏敵が攻めてこようとも、大丈夫と言える内容に仕上がっているのであれば、それこそが真のルネッサンスであり、私は心配がなくなるので容認するでしょう。今回の教義変更は、教学部レポート、遠藤文書を読む限り、執行部の独断専行で推し進めた疑惑があります。それは一体何のためなのか。中心の一念に狂いがあれば、創価学会自体が狂っていくことを懸念しています。真実は何かを突き止め、明らかにしなければ、学会を護るといっても、ただの言葉でしかなくなる。このような追及はすべての学会員がやる必要はなく、言わば、創価学会特殊部隊(宿坊の掲示板)が調査しているという認識であればよいと思います。

・賛成派に変わるというなら、建設的な意見として精度の高い解説に向けてただちに協力できるか否か
私個人は一向に構いません。ただし、この掲示板で追及していることは、教義の内容云々よりも、執行部が師敵対であり、学会をよからぬ方向への導いているのではないかという疑惑を検証するところであり、それがメインとなっています。教義は複雑で簡単に結論を出せる問題ではないので、議論も煮詰まってしまうと思います。また、協力しても、それ自体が我見の域を出なかったり、かえってわけのわからない状態になってしまう恐れもあります。故に、学会の公式見解を待つことが最善ではないかということで、待っていました。尚、悪を責めるという性質上、行き過ぎた表現や、小競り合いも頻発し、やれやれですが、一方では、血の気が多いからこそ戦うこともできるという側面もあります。良識なき言動は厳に慎まなければならないし、感情的になってしまったら、一呼吸おいて投稿するなり、一度散歩に出かけて気持ちをリセットしたりと、工夫することが大事だと思います。対面のやり取りではないのだから、その余裕を設けることは可能でしょう。

・女性の投稿がほとんどないことについて
悪を責めるということ自体が、攻撃的であり、女性はそれに対しては外で見ているだけで十分と考えがちなのではないでしょうか。掲示版の性質が男性的であり、争い事を好まない人のほうが圧倒的に多いのが実情でしょう。投稿するということは、多くの人に自身の考えを披露することになります。それはそれでエネルギーを使うことであり、文面にはどれだけ気を使っても足りないものだと思います。自分の意見に対して賛成の人もいれば反対の人もいて、あらゆる考えが入り乱れる。まさに戦場であり、皆が真剣だからこそ、意見も衝突し、時にはエスカレートする場合もあります。それを上手に是正させながら、本題から逸れないようにしていくのが重要でしょう。

・時間をかければ高い精度の解説は可能か否か
これはどちらとも言えないと思います。私も教学に関しては、一通りすべて学んだ身ですが、もしも教学部の責任者で、精度の高い解説をつくれと言われたのなら、「正直嫌だな」と思ってしまいますね。感情面では、ルネッサンスの強行突破で行きたいですが、論理の世界ではそれは通じないし、そんな人間が教学部の責任者だったら大変なことです。強行突破はもはや教学ではないので、ちょっと待ってくれとなりますね。可能かどうかは厳密に検証してみなければわからないですし、結論ありきは恐いです。今回準備不足で教義変更してしまいましたから、それが心配です。教学部レポートによると、まったく準備ができていないとのことなので。

・破門後の先生が指揮を執られた組織にずっと違和感を感じ続けていたか否か
先生が縦横無尽に指揮を執られたのは間違いありませんが、それでも制約はあったと思います。同時中継では、カットされている部分もありますし、私も先生の会合に参加した折には、「今日聞いたことは口外しないように」と幹部に口止めされたものです。先生はボソッとやばい発言されているので。まあ、そこが参加者としては面白いのですが。そして、名誉会長には組織を動かす権限はありません。口を出すことは可能ですが、実際運営しているのは会長以下執行部の面々であり、先生自体も皆が萎縮するという理由で会議にはほとんど出席しなかったようです。組織の体質というのは、先生が指揮を執られていた時代も今もたいして変わっていないと思います。しかし、先生の指導は幹部に厳しく、組織悪にも厳しかった。組織の官僚化をいかに防ぐかが先生の戦いであり、そのために、一人を大事にされたのだと思うのです。今、創価学会の指揮を執っているのは執行部であり、そして一割退転やむなしの教義変更を強行してしまった。ここに慈悲はあるのは否か。むしろ今以上に、違和感を感じる組織になっていくのはこれからなのかもしれません。

ともあれ、本物の宗教であるならば、魔は競い起こります。そして魔は紛然としており、見分けがつかないのが特徴です。「まさか」というところに魔は入っていきます。常人の思考の斜め上を行き、「そんなバカなことがあるのか」ということが起こるものなのです。宿坊の掲示板は、そのギリギリの部分を検証しているわけです。最悪な事態を想定してこそ賢人であり、少しでも疑惑があるのなら見逃さない。そういう集団も必要ではないかと思うのです。以上、簡単ではありますが、私の思うところを述べさせていただきました。