投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 3月 6日(金)04時38分18秒  

僭聖には「聖者のふりをする」という意味がある。これを元に、師敵対を定義すると、「弟子のふりをして、師を貶めること」ではなかろうか。意識、無意識に関わらず、師を貶めてしまっているのならば、それは師敵対でしょう。

師弟の宝冠VOL.1より
「一番怖いのは内部の増上慢だ。こうした人間とは断固、戦わねばならない。どんな戦いも、戦い抜いたほうが勝つ。戦いをやめたほうが負ける。これが方程式だ。人生すべて、戦いなのである。」

内部の増上慢とは一体誰を指すのか。創価学会は師弟を重んじる宗教であり、師弟不二を肝心要の教えとしている。であるならば、師を甘くみること、師より自分のほうが上であるという考えこそが、増上慢といえましょう。その根底にあるのは師への嫉妬であり、嫉妬というのは存在が近ければ近いほど、抱く感情である。提婆達多は釈尊の従兄弟であり、教団においても実力者で、一目置かれる存在であった。学会において、師に近い存在とは一体誰を指すのか。師と接することのできる人間の中に、提婆達多は存在するのです。そして、三代の師弟が本物であるならば、必ず提婆達多は出現します。そうでなければ仏法ではない。

さて、現実に師敵対の幹部があらわれた時にどうすればいいのか。今回に限らず、その可能性というのは常に内在しているのが創価学会であり、幹部無謬、組織無謬などというのは、チャンチャラおかしい話である。そんなものは空想世界の産物であり、人間の善の部分しか見ない、たわけ者である。ここにはそんな愚かな人はいないと信じるものであります。

師敵対の増上慢とは戦えと先生は指導されている。しかも、戦い抜けと。現在、執行部に師敵対の疑惑があり、それに対してとことん追及するのか。それとも、内部なのだから、幹部も同じ人間なのだからと、うやむやにし、やめてしまうのか。また、疑惑を100%証明できないからといって、反故にしてしまうのか。そもそもこの世に100%というものが、どれだけあるというのか。人間の思い込みこそが盲点であり、常識が非常識にもなり、非常識が常識にもなり得るのである。

人は間違いを犯す生き物です。私もそうです。大事なのは、常に「自分も間違いを犯す可能性がある」と意識することではないか。その意識があれば、素直に間違いを認めることができます。それと同様に、自分自身も師敵対になることもあるのです。その可能性を排除して、悪との闘争は出来ないと考えます。くれぐれも、ミイラ取りがミイラにならないよう、十分気をつけてまいりたい。これ、自浄作用である。

私は、御本尊は絶対であると思っていました。しかし、今回の教義変更で、状況によっては、御本尊ですら本尊としての対象から外されてしまうのだなと、なんだか切ない気持ちになりました。御本尊といえども、そんなものなんだなと。これ御本尊のリストラであり、認定力最強説浮上。果たして簡単に割り切っていいものなのかどうか、複雑な胸中の人は、私だけではないでしょう。むしろ、少しは考えたり、悩んでほしいものである。それが信仰者の矜持というものではなかろうか。「すっきりした」「わかりやすい」という以前の問題であり、信仰者として、どう向き合うかが問われているのではないでしょうか。