投稿者:虹と創価家族 投稿日:2016年11月17日(木)07時06分51秒   通報
世界広布新時代 第21回本部幹部会で、池田先生の指針が放映されましたが、内容が改ざんされているのが発覚しました。

【聖教新聞掲載日】
2016年〔平成28年〕11月16日(水)3面

【原文】
池田大作全集83巻
第十七回SGI総会
全員が幸せに暮らす二十一世紀へ
(1993年〔平成5年〕10月22日)

【注意事項】
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組替掲載部分が文中に≪ ≫で掲載してありますが、本来は、この位置にない文章です。
今回は(拍手)(笑い)(拍手)も原本に沿って加筆してあります。

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第十七回SGI総会
全員が幸せに暮らす二十一世紀へ
(1993年〔平成5年〕10月22日)

【■どの国でも「心」は大聖人に通じる。ゆえに世界宗教】

【きょうは、世界五十三カ国から四百五十八人のSGI(創価学会インタナショナル)の代表の皆さまが参加しておられる。遠いところ、本当にご苦労さま。心から歓迎し、感謝申し上げたい。ありがとう。(拍手)

円高で経済的にも大変ななか、このように、広宣流布のために集ってこられた。】

<ただ広宣流布のために、わが使命を果たそうとする──その同志のつながりこそ世界一、尊いものである。>

【とくに、皆さま方を送り出してくださったご家族の皆さま、地域の同志の皆さまに、お帰りになったら、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。】

<建治元年(一二七五年)六月、日蓮大聖人は、佐渡の一人の婦人に、あたたかな御手紙を送られている。
婦人の名前は国府尼(こうあま)。

佐渡の地から、はるばる身延の大聖人のもとに夫を送り出し、自分は留守を守っていた。
大聖人は、彼女の心を思いやられて、こう仰せである。

「尼ごぜんの御すがたをば・みまいらせ候はねども心をば・これに・とどめをぼへ候へ、日蓮をこい(恋)しく・をはしせば常に出ずる日ゆうべに・いづる月ををが(拝)ませ給え、いつ(何時)となく日月にかげ(影)をうか(浮)ぶる身なり、又後生には霊山浄土に・まいりあひ・まひらせん」(御書1325ページ)

──尼御前(あなた)のお姿を拝見はいたしませんが、(あなたの)心は、ここにおられると感じます。日蓮を恋しく思われたなら、常に(朝に)出る太陽、夕べに出る月を拝まれるがよい。(日蓮は)いつであっても、太陽や月に影を浮かべる身なのです。また、死後には霊山浄土へ行って、そこでお会いしましょう──と。

″たとえ直接、会えなくても、私はいつも、あなたのそばにいますよ″″太陽や月に姿を浮かべて必ず見守っていますよ″″永遠に一緒ですよ″──これが御本仏の御心である。仏法の真髄である。>

【御本仏・日蓮大聖人の御生命は宇宙大であられる。小さな寺院や本山にしか大聖人の御生命はないなどというのは、御本仏への冒涜であろう。御書の仰せは、その正反対である。(拍手)

いわんや皆さまは、大聖人の御生命の当体であられる御本尊を拝しておられる。世界のどこにあっても、その場で、御本仏の生命を拝することができることを確信していただきたい。(拍手)

国際宗教社会学会の会長を務めたイギリスのブライアン・ウィルソン博士は、「ある特定の場所に詣でなければならないというような宗教は、世界宗教にはなりえない」と述べ、だれもが、自分のいるその地で信仰できることを世界宗教の条件としている。

大謗法の法主による破門だとか、登山会の停止で、広布を進める私たちと大聖人との久遠以来の生命の絆を切れるわけがない。(拍手)

日顕宗は、ただ自分たちのために、人々を無理やり自分のもとに集めたいだけなのである。大聖人の御精神とは正反対の無慈悲さである(拍手)。人気取りの指導者たちも同様である。】

【■「同心」のわれらはみな家族】

【また大聖人は、この御手紙の中で、″妙法の同志は団結していきなさい″″仲良くしていきなさい″と仰せである。

当時、佐渡の地には、信心に励む国府尼と千日尼という婦人がいた。今でいえば、支部婦人部長や地区担当員に当たるかもしれない。

大聖人は、「同心なれば此の文を二人して人によませて・きこしめせ」(御書1324ページ)──同心(同じ信心)の二人であるから、この手紙を二人して人に読ませて、それをお聞きなさい──と仰せである。

人数の多い少ないではない。大聖人は、たった二人であっても、真心から激励されている。

また、どちらかが上、どちらかが下とかではなく、二人は、同じ信心に励む同志である。家族である。二人して″仲良く仏法を語り合っていきなさい″″朗らかに心を合わせていきなさい″との大聖人の御心が拝される。

どうせ信心するならば、楽しく、明るく信心したほうが得である。

怨嫉や仲違い、一時の感情から傷つけ合うのでは、つまらない。幸福になるため、最高に楽しい人生を送るための信心である。

たとえば、忙しくて少し会合に出られない人がいると、すぐ批判して、だめだと決め付ける。大きな心で包容し、励ましてあげるべきときにも、小さな感情にとらわれてしまう。それでは、お互いが不幸である。

妙法の世界は、一番、清らかな人間性の世界である。世界で一番、仲の良い団体──これがSGIである。これほど麗しい世界はほかにはない。(拍手)

とくに、壮年部は、婦人部の皆さまに、常に温かな励ましの声をかけてあげていただきたい。実情は、それどころか″壮年部さえいなければ″(爆笑)──これが、婦人部の日ごろの思いかもしれない。(笑い)

確かに、いつも先頭に立って動いているのは婦人部である(拍手)。壮年部はいばっているだけ(笑い)。婦人部がいなければ何もできない(笑い)。こうだとすれば、情けない。

壮年部の方々は、ナイト(騎士)の精神で″私がいれば大丈夫。婦人部を、女子部を、そして学会を守ってみせる″
──こういう毅然たるリーダーであっていただきたい。

そのうえで、朗らかで温かく、包容力があって親切。これが本当の壮年部である。(拍手)】

【■広布に働く人は即座に仏に】

<また大聖人は、南条時光の母である上野尼御前にも、御慈愛あふれる御手紙を与えられている。>
【青年・時光のお母さん──。学会の婦人部や指導部に当たるといえよう。

大聖人は、もちろん、命がけで戦う男性の門下には真剣に激励をされた。そして、こよなく婦人を尊敬し、大切にされたのである。

二十一世紀、二十二世紀は「女性の世紀」と予測されている。三世に通暁〈つうぎょう〉(くわしく知ること)された御本仏は、こうした時代の到来を見通されていたのかもしれない。】

<大聖人は、仰せである。

「一切経の功徳は先に善根を作して後に仏とは成ると説くかかる故に不定なり」(御書1580ページ以下同じ)

──(法華経以外の)一切経の功徳は、先に善根を作って、後に仏になると説きます。このようですから、(成仏という根本の大事が)不確かな教えです──。

同じ仏教でも、法華経以前の爾前経では、今世の善根によって来世に果報を得るとか、過去世の悪業で今世に苦しんでいるから、来世のために善根を積みなさいとか教える。>

【しかし、今のスピード時代に、そんなことを言っても、待っていられない(笑い)。「今、苦しいのをどうしてくれるのか」と言われても、答えようがない。現代人には、納得できないであろう。また過去世の業といっても、自分ではわからない。他の人にもわかるはずがない。】

<そうではなく、大聖人の仏法は本因妙であり、現当二世の仏法である。

大聖人は仰せである。
「法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り・口に唱ふれば其の口即仏なり」

──(それに対して)法華経というのは、手に取ればその手がただちに仏に成り、口に唱えればその口がそのまま仏となります──。

法華経とは、いうまでもなく大聖人の法華経、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経のことである。

皆さまが御本尊に手を合わせて題目を唱えれば、その手が仏である。題目を唱え、弘教に励めば、その口は仏である。さらに、教学を謙虚に学び、感激して人に教えていけば、頭に仏の力が宿る。頭脳が明晰にもなっていく。

このように信心は即、我が身の上に、生活の上に、仕事の上に、厳然と顕れていく。そして、今世で直ちに成仏していけるのが大聖人の仏法なのである。>

【(戸田第二代会長は「帰依(きえ)して南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが、よりよき運命への転換の方法であります。この方法によって、途中の因果がみな消えさって、(清浄なる)久遠の凡夫が出現するのであります」と述べている)

さらに大聖人は、譬えを引かれ、わかりやすく述べられている。
「譬(たと)えば天月の東の山の端に出ずれば其の時即水に影の浮かぶが如く・音とひびきとの同時なるが如し」

──たとえば天の月が東の山の端に出れば、その時、すぐに月影が水に浮かぶようなものであり、音と響きとが同時であるようなものです──。

いつか成仏する、というのではない。口に妙法を唱え、五体を使って広布に動く人は、即座に仏に成るとの仰せである。

この素晴らしい妙法を信受しながら、退転したり、謗法を犯して、自分で自分の功徳を消してしまう人がいる。本当に愚かなことである。】
【■悪の人につけば不幸、善の人につけば幸福】

【「故に経に云く「若し法を聞くこと有らん者は一として成仏せざること無し」云云、文の心は此の経を持つ人は百人は百人ながら・千人は千人ながら・一人もかけず仏に成ると申す文なり」

──ゆえに法華経に「もし法を聞く者があるならば、一人として成仏しない者はいない」云々と説かれています。この経文の心は、この経を持つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人も欠けず仏に成るということです──。

法を聞くとは、法を受持しきるということである。御義口伝に『法華文句』を引かれて如是我聞(にょぜがもん)の「我聞とは能持(のうじ)の人なり」(御書709ページ)と。能持の人は、全員が仏に成るのである。】

<百人いれば百人、千人いれば千人、全員が残らず成仏できる──これが、御本仏の絶対の御約束であられる。大聖人の仏法は、あらゆる人々に開かれた「世界宗教」である。>

【法主だけが″特別の人間″であるとか、法主の言うことなら謗法であっても従わなければならない、とは御書に書かれていない(笑い)。皆さまは、聖職者のまやかしに絶対にだまされてはならない。

どんなに性能のよい自動車でも、運転する「人」が正気を失っていれば、危なくて、とても同乗できない。それと同じように、「法」といっても、正しい行動の「人」が大事である。悪人についていけば、自分が不幸になるだけである。】

<「皆が共に成仏」「皆が共に幸福」「皆が共に栄光」──こうした和楽の世界をつくるのが、仏法である。ゆえに世界平和の根幹となる。>

≪「全世界の平和のため」「全人類の幸福のため」、創価学会は絶対に壊されてはならない。≫

【どうか二十一世紀に向かって、】<「仲良く」「朗らかに」「強く」、そして「健康」で「余裕」をもって、前進していただきたい。(大拍手)>

【そして、嫉妬に狂って学会を破壊しようとする大悪の日顕宗とは、断じて戦い抜いてまいりたい。(拍手)】
<リーダーの皆さまは、″大切な仏子を一人も残らず幸福にしてみせる″との断固たる精神で進んでいただきたい。創価学会、SGIを守ることが、一番、大聖人が喜ばれることである。(拍手)>

【■「悪侶を一掃し、世界に誇るべき宗教」を】

【釈尊が最後に説いたとされる涅槃経に、次の有名な一節がある。
「我(われ)涅槃の後(中略)像法(ぞうぼう)の中に於(おい)て当(まさ)に比丘(びく)有るべし。持律(じりつ)に似像(じぞう)して少(わず)かに経を読誦(どくじゅ)し飲食(おんじき)を貪嗜(とんし)し其(そ)の身を長養(ちょうよう)す。(中略)袈裟(けさ)を服(き)ると雖(いえど)も猶(なお)猟師(りょうし)の細視徐行(さいしじょこう)するが如(ごと)く猫(ねこ)の鼠(ねずみ)を伺(うかが)うが如し」(大正十二巻)

──私(釈尊)が入滅した後(中略)像法時代において、次のような比丘(僧)があるであろう。戒律を持つように見せて、少しばかり経典を読誦し、飲みものや食べものを貪り好んで、その身を養う。(中略)袈裟を着ているとはいえ、(布施をねらう様子は)猟師が細目に見てゆっくりと(獲物に)近づくようであり、猫がねずみをねらうのに似ている──と。

大聖人の御書では、この経文が何度も引用されている。大聖人は、こうした貪欲な悪侶と徹底して戦われた。まさに「大宗教革命」の御生涯であられた。

戸田先生は、この経文を通し、こう語られている。

「当今の様をみるのに、この経文にぴたりと、あらゆる僧侶、あらゆる宗教家があてはまっているのではないか。経はわずかより読まず、読むといっても意味は少しも知らない。葬式と法事と墓守を業としている」(「開目抄」講義、『戸田城聖全集』第六巻)と。

まさしく、今の日顕宗の姿そのものである。勤行も、ろくにやらない。御書も拝さない。広宣流布の大願などまったくそっちのけで、遊蕩(ゆうとう)また遊蕩の日々──堕落の極みである。そのうえ僧侶という立場を悪用して、尊い仏子をいじめ抜いてきた。貪欲なだけの僧よりも、もっと悪い。

戸田先生は、日本の仏教界の堕落した僧侶を、厳しく弾呵されている。今から何十年も前のお言葉である。(昭和三十二年、「種種御振舞御書」講義、同第七巻)

「実際にいまの日本の国でも僧侶くらい役に立たないものはありません。ほんとうに、彼らがいちばん日本の米をただで食っている」(爆笑、大拍手)

「寺などいりません。いまの寺などというのは全部、宿舎か寮にしてしまえばいいのです」と。

戸田先生は当時から、「坊主には絶対にだまされるな。日蓮正宗も同じだぞ。御本尊と御書以外は信じてはいけない」と、見抜いておられた。本当に鋭い、天才の先生であられた。

それでも私は、正法興隆のため、宗門に誠心誠意、尽くしてきた。守り抜いてきた。私たちの赤誠を裏切った宗門の罪は、計り知れない。(大拍手)

さらに戸田先生は、こう獅子吼されている。
「速やかにかかる寺院、かかる僧侶が一掃せられて、真に世界に誇るべき宗教のあらわれんことを望むものである」(前掲「開目抄」講義)と。

大聖人直結の我が創価学会こそ、世界に誇る偉大な宗教である、との大確信であられた(拍手)。私たちSGIは今、その先生のお心どおりに進んでいる。(拍手)】
【■恩師は叫んだ「世界の国を救おう、これが学会精神」】

【ここで「佐渡御書」の有名な一節を拝したい。

「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し」(御書957ページ)

──悪い権力者が正法を破るのに、邪法の僧等が、それに味方して、智者を亡きものにしようとする時には、師子王のごとき心を持つ者が必ず仏になることができる。たとえば日蓮のようにである──と。

「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」──正法を守るために、師子王の心を出す。その「時」は今である。その「人」が仏になる。

戸田先生は、この御文を拝し、指導された。(『戸田城聖全集』第六巻)

「学会精神というものは、日本の国、世界の国を救わんがためにやっているのです」「全民族が幸せに暮らせるようにするための広宣流布です」

素晴らしい大理想である。私たちは着実に、この方向へ進んでいる。それを妬み、邪魔しているのが日顕である。

戸田先生は「われわれは、師子王のごとく誇りをもっていいのです。そうしたら仏になれるそうです。『例せば日蓮が如し』です」と。

私たちは「師子王の心」で生き抜く。猫やねずみではなく、堂々たる獅子として戦う。悪に対して黙っていてはいけない。沈黙は、悪に通じる。黙っていては、自分が弱くなる。それは即、敗北の姿である。】

【【「全世界の平和のため」「全人類の幸福のため」、創価学会は絶対に壊されてはならない。】】
【そのためにも、悪とは敢然と戦う以外にない。勇んで戦い、すべてに打ち勝っていく。これが「学会精神」である。そこに徹した人が仏になる

──そのことを、御書を拝して、戸田先生は教えられたのである。】
(つづく)
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【改ざん問題】改ざん行為を御書に照らせ!
http://6027.teacup.com/situation/bbs/60015