投稿者:螺髪 投稿日:2016年11月15日(火)05時59分38秒   通報 編集済
「人法一箇の南無妙法蓮華経」への一考察。
一人のSGIさん、お疲れさまでした。
教学の基礎研究というのは、科学の世界と同じで、時間も、思考の積み重ねが必要なものです。一旦は細分化し、それをまた道理にしたがって組み立てなければなりません。日常的な研鑽と、思索が欠かせません。その労力と、勇気に敬意を表します。
「4/12」の「空、仮、中の3諦に『人、法』を当てはめてみると『人』の側面は空、仮、であり、『法』の側面は中」――は、今後の思索課題としてインプットしておきます。

「7/12」の須田さんの
>>楊枝本尊はもっとも簡略な形の曼荼羅であるため、その相貌には日蓮図顕の曼荼羅の本質が表れている。
すなわちこの最初の文字曼荼羅の相貌は、文字曼荼羅の本質的要素が南無妙法蓮華経と日蓮花押にあり釈迦・多宝の二仏は略されてもよい派生的なものであることを物語っている」<<

この箇所では、私はまったく逆のことを感じました。「ああ、やっぱりそうか」と。

それは、須田さんの
「(大聖人は)法華経二十八品を弘めたということでは全く無い。法華経二十八品を用いて南無妙法蓮華経を弘められたのである」
という言葉からも、うかがい知れるのではないでしょうか。

私が「やっぱり」と思うのは、次の理由からです。

「人法一箇の南無妙法蓮華経」は実は、宇宙と大聖人と我等衆生の三重構造になっているのではないのかという視点からです。

池田先生の「一生成仏抄講義」にありました。

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「心こそ大切」です。三障四魔に退くことなく、無明を打ち破っていく勇気ある信心こそ、私たちが唱題において何よりも心すべきことです。
妙法蓮華経とは、究極の妙理の名です。そして南無妙法蓮華経とは、この妙理を顕現した仏の生命の名です。
ゆえに、南無妙法蓮華経と唱える信心の一念に妙法蓮華経の無限の功徳が開花するのです。これが、仏界の生命の湧現です。
=中略=

「南無妙法蓮華経の唱題は衆生の信心の声であるとともに、仏の生命の声でもあるのです。ゆえに唱題は、どこまでも白馬が駆けるように朗々と、そして爽やかに実践していきたいものです。
さらにまた、自分が自身が本来、妙法蓮華経であることを確認する行為が唱題であるということもできます。本来の自分に立ち戻り元初の生命力を奮い起こす戦い、それが唱題です。

大聖人は、『南無妙法蓮華経と唱える以外に真の遊楽はない』と断言されています。そして、その遊楽とは『自受法楽』<註6※=自ら法楽を受く>であると言われた。
『法楽』とは、生きていること自体、存在していること自体に具わる確固たる安楽です。妙法と一体の大いなる生命力を満喫し、楽しむのです。

このような意義をもつ唱題行において、絶対に忘れてはならないことは、『妙法蓮華経とは自分自身のことである』という一点です。
この一点を忘れたら、いかに題目を唱えても、大聖人の教えられた唱題行とはかけ離れたものに陥ってしまいます。
ゆえに、本抄で大聖人は『但し妙法蓮華経と唱へ持つ云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法<註7※そほう=粗雑で偏頗(へんぱ)な法>なり』(御書383㌻)と厳しく戒められているのです。南無妙法蓮華経の題目を唱えても、妙法蓮華経が己心の外にあると思って唱題している限り、それは妙法にならず、麤法になってしまうと仰せです。 =以下略=」(一生成仏抄講義46~49㌻)(※印は筆者註)

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「南無妙法蓮華経」について御書では、「南無妙法蓮華経の五字」という箇所が何カ所もあります。年齢を重ねてまいりましたが、まだ、文字数は数えられます(笑い)。「南無妙法蓮華経」は「七字」です。「五字」ではありません。

検索してみると、これがけっこう多いのです。しかも、観心本尊抄や下山御消息の五大部・十大部に入るもの、そして門下に送られた御消息文にもかなりあります。以下に列記しましたが、十編以上に及びます。

「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う」(如来滅後五五百歳始観心本尊抄274㌻)
「像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し出現して迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して百界千如・一念三千其の義を尽せり、但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず所詮円機有つて円時無き故なり」(如来滅後五五百歳始観心本尊抄254㌻)
「地涌の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序のためなり」(下山御消息346㌻)

「実には釈迦・多宝・十方の諸仏・寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う広長舌なり、我等と釈迦仏とは同じ程の仏なり釈迦仏は天月の如し我等は水中の影の月なり」(下山御消息359㌻)
「上行菩薩・末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり」(寂日房御書903㌻)
「竜樹・天親は共に千部の論師なり、但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまわず此に口伝有り、天台伝教は之を宣べて本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字と之を残したもう」(法華行者逢難事965㌻)

「此の内証に声聞・辟支仏更に及ばざるところを次下に一切声聞辟支仏所不能知と説かるるなり、此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり、此の五字を地涌の大士を召し出して結要付属せしめ給う是を本化付属の法門とは云うなり」(曾谷殿御返事1055㌻)
「当今は末法の始の五百年に当りて候、かかる時刻に上行菩薩・御出現あつて南無妙法蓮華経の五字を日本国の一切衆生にさづけ給うべきよし経文分明なり、又流罪死罪に行わるべきよし明かなり、日蓮は上行菩薩の御使にも似たり」(右衛門太夫殿御返事1102㌻)
「設ひ法華経には値うとも肝心たる南無妙法蓮華経の五字をとなへがたきにあひたてまつる事の・かたきにたとう」(松野殿後家尼御前御返事1392㌻)

「殊に国中の智者げなる持戒げなる僧尼の心に此の鬼神入つて国主並びに臣下をたぼらかさん、此の時上行菩薩の御かびをかほりて法華経の題目・南無妙法蓮華経の五字計りを一切衆生にさづけば・彼の四衆等・並びに大僧等此の人をあだむ事父母のかたき宿世のかたき朝敵怨敵のごとくあだむべし」(高橋入道殿御返事1459㌻)
「涌出品は日蓮がためには・すこしよしみある品なり、其の故は上行菩薩等の末法に出現して南無妙法蓮華経の五字を弘むべしと見へたり、しかるに先日蓮一人出来す六万恒沙の菩薩より・さだめて忠賞をかほるべしと思へば・たのもしき事なり」(上野殿御返事1557㌻)

もちろん、七字五字の「南無妙法蓮華経」とされておられる御文もあります。
「問うて云く法華経の意をもしらず只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて一日に一遍一月乃至一年十年一期生の間に只一遍なんど唱えても軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかずついに不退の位にいたるべしや、答えて云くしかるべきなり」(法華経題目抄940㌻)

逆に、七字五字の「妙法蓮華経」とされている御文もあります。
「今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり」(諫暁八幡抄585㌻)
「余の九百九十人はなくなみだを硯の水として、又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけしなり、今日蓮もかくの如し、かかる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり、釈迦仏・多宝仏・未来・日本国の一切衆生のために・とどめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと」(諸法実相抄1361㌻)

非常に興味深い仰せは、次の一節です。
「法界の千草万木地獄餓鬼等何の界も諸法実相の作礼に非ずという事なし是れ即ち普賢菩薩なり、普とは法界賢とは作礼而去なり此れ即ち妙法蓮華経なり、爰を以て品品の初めにも五字を題し終りにも五字を以て結し前後・中間・南無妙法蓮華経の七字なり、末法弘通の要法唯此の一段に之れ有るなり」(御義口伝803㌻)

「前後・中間・南無妙法蓮華経の七字なり」です。

「仏は文字に依つて衆生を度し給うなり」(蓮盛抄153㌻)
と仰せですが、「文字」は、意思を伝えるに不可欠なものですが、一面、不自由なものです。池田先生とトインビー博士の「仏法の三諦」や「究極の精神的実在」の説明の段でもそうありました。

「人法一箇」といっても、それを表すのは、言葉(文字)をつかった「法」です。
こうは言えないでしょうか。
「人法一箇の南無妙法蓮華経」は、

妙法蓮華経       五字の南無妙法蓮華経(法の側面)
南無妙法蓮華経(如来) 七字の南無妙法蓮華経(人の側面)    「五仏同道の南無妙法蓮華経」
南無妙法蓮華経(法の側面)
日蓮     (人の側面)                   「日蓮大聖人の御生命」
南無妙法蓮華経 日蓮(法の側面)
我等衆生      (人の側面)                「境地冥合する我等衆生」
「五仏同道の南無妙法蓮華経」が、法華経の智慧で示された「永遠の法」と一体の「永遠の仏」です。それをご自身に体現された「日蓮大聖人の御生命」、私たちはその「日蓮大聖人の御生命」を「法」として「境地冥合」していく以外に「人法」を体現する方法はないのです。つまり、「信心」です。「日蓮大聖人の御生命」を「形」として現わされたのが、十界互具、あるいは十界三千の御本尊であることは言うまでもありません。ここで日寛教学が重要になってまいります。単なる文献主義は頂けません。

この宇宙の「人法一箇の南無妙法蓮華経」といっても、受け取る側では「文字」や「言葉」であるがゆえに「法」としか受け取っていないのです。「人法一箇」と伝わるには、伝える側の真摯な態度と、それを受け取る側の、それだけの智慧がどうしても必要なのです。不可解な“神秘的”なものはありますが、「神秘」はない、「道理」が人を納得に導きます。

「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(経王殿御返事1124㌻)

「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、かう申し出だして候も・わたくしの計にはあらず、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計なり、此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事(※大変な僻見)なり」(上野殿御返事1546㌻)

「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり」(曾谷入道殿御返事P1058)

との御文を記して終わります。