投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年11月12日(土)07時20分53秒   通報
アメリカSGIのブリジッド・テンペルさんの体験

愛するドレスデンよ――
平和と自由の三色旗舞え――

☆フルダ川を泳ぎ “死の地帯”を越えて

小説『人間革命』の冒頭に、「戦争ほど、残酷なものはない」とあります。

この一節が、私を信仰に導いたのでした。

私は、第二次世界大戦中のドイツに生まれ、戦争の悲惨さをじかに体験しました。父は医師でしたが、ナチ党には入りませんでした。

共産主義の地獄の中、絶え間ない秘密警察への不安のもとで、旧東ドイツのドレスデンに住みました。

ある時、レストランにいた私は、酔って千鳥足になったソ連軍兵士からの踊りの誘いを断りました。

その店主が、私と友達を連行するという秘密警察の電話を立ち聞きし、命がけでかくまってくれました。

私達は、台所の隠し戸から地下の倉庫へと連れていかれ、2時間以上に及ぶ秘密警察の探索の間、じっとしていました。
ぎりぎり助かりました。

私は、家族と離れ、西側に逃げるしか道はない、
今度、呼び出しがあったら、多くの友達のように、永遠に姿を消すことになる、と悟りました。

地獄の脱出行でした。
フルダ川を泳ぎ、多くの人が撃たれた ” 死の地帯 “と呼ばれる土地に張り巡らされる高圧電線の下を這いつくばって逃げました。

地中には地雷が埋まっています。
膝と、足を撃たれました。

けれども、幸運にも、西へ脱出出来たのです。

1958年5月23日.アメリカへ。
主に家政婦をしながら各地を転々とした末に、ニューヨークで、オペラ歌手を目指して歌の勉強を再開しました。

祖国では、有名な指揮者で歌手だった祖父に、ついで母に歌を習い、ドレスデン音楽アカデミーに進んだ私でした。

ウェートレスをしながら勉強し、生活のために、ナイトクラブで歌ったり、オペラ歌手にドイツ語の発音や歌を教えたりしました。

75年、ロサンゼルスへ。80年、仏法を知り、小説『人間革命』に出会ったのです。

翌年、御本尊を受けました。私は、二つのドイツがもう一度、一つになること、
そしてソ連圈諸国の人々が仏法によって人生を変え、幸福になることを自分の深い願いとし、祈りました。

私の心に、母が生きている間に、御本尊に引き合わせ、一緒に唱題したい、という思いが芽生えていました。

父は亡くなっていました。

☆もう一度母に会いたい.

それは危険な考えでした。東ドイツでは印刷物の持ち込みは禁じられており、御本尊と経本が見つかれば、秘密文書を持ち込もうとしたスパイとして、逮捕されます。

3年間、唱題しながら迷いました。
唱題は日に6時間、10時間に及ぶことも。

そして、決行を決意したのです。

東ドイツ政府に、入国を申請。政治的亡命者ではなかったので、許可されたのでしょう。
でも、私は脱出者リストに載っている身。

東ドイツに足を踏み入れたら逮捕されるのでは、という恐怖がありました。

でも、母に会いたいという思いの方が強かったのです。

84年12月、東ドイツへ向かいました。

御本尊を収めた、小さな袋を縫い込んだスカーフを首に巻き、経本はストッキングの中に。

列車が国境に近づくにつれて、不安が高まります。
かつて味わったと同じ恐怖に押し潰されそうになり、国境手前の駅で降りようとしたほどでした。

東ドイツに入ると、国境警備員が、殺人訓練をされた犬をつれて車中にやって来ました。

地震のように揺れる列車の中で、落ち着け、そしてボディチェックされないように、と震えながら心で唱題。祈りは通じたのでした。

列車は、吹雪のために10時間もの延着でした。
その10時間を、母は駅舎で待っていてくれたのです。

互いを見たその瞬間――嬉しくて、感動で、もう二度と離さないという思いで抱き合いました。

ドレスデンの家は、45年2月のいわゆるドレスデン爆撃で失われ、田舎の夏の別荘に母と妹が住んでいたのです。

その家で、御本尊を手製の紙の仏壇に御安置し、約3週間、毎日最低3時間の唱題をすることが出来ました。

私は、母に、御本尊のことを話しました。
一緒に2度勤行し、勤行を覚えた母は、93年に亡くなるまで続けました。

私は、鉄のカーテンの向こうに生きる人々の幸せを祈り続けました。

89年11月9日、ベルリンの壁が崩壊。
ドイツがまた一つになり、私は、感謝の唱題をしました。

御本尊の力を感じたのです。

私が入会した時、ある先輩から、
『題目によって、宇宙のリズムと調和した人生になっていく』と激励され、
多くの点で、その通りの実証を体験してきました。

でも、ここ数年、まだ何かが足りないという思いが募るのでした。

☆地獄の脱出行から53年.喜びの帰郷.
過去から力満ちた未来へ.

昨年のことです。
10月にドレスデンに帰ることにし、ドイツ文化会館に電話をしてみました。

何というタイミングでしょう、電話の相手は、
「あなたが10月に来られるというのは、決して偶然ではありません。
池田会長が『30年後には、きっとこのベルリンの壁は取り払われているだろう』と宣言されてから、まさに50周年なのですから。
あなたも、ベルリンに来て下さい」といって、その記念の会合に、私と妹が出席出来るようにしてくれたのです。

ドレスデンをはじめ、旧東ドイツのあそこにもここにも、たくさんのメンバーが活動していると教えてくれました。

それらの街の名前を聞きながら、私の目に涙があふれてきました。

その当日の10月8日、
私と妹は、たくさんのメンバーが打ち振る三色旗の波の中を、ベルリン会館の中へと歩み入りました。

旧ソビエト圈も含むヨーロッパ中からのメンバーの力強い唱題の声。
信じられない光景でした。

それからドレスデンへ行き、勉強会に出席しました。

その会場の入り口に掲げられたSGIの大きな文字を見た時の喜びは、言葉には出来ません。

私の体験を話し、一緒に勤行し、若い女性メンバーと語り合い、素晴らしい帰郷となりました。

音楽アカデミーの仲間とは、60年ぶりの同窓会となりました。

今回、私がドレスデンに帰らなければと思ったのは、私の業、つまり自分の人生に付きまとってきた苦しみの原因を見つめ、それから自由になりたかったからです。

ドレスデンは、戦火の灰の中から、以前にもまして美しくよみがえっていました。

幼いころ、オルガンを弾く祖父の傍(かたわ)らに座って、荘厳な音楽に包まれた思い出のある教会にも行きました。

そして、あの秘密警察に逮捕されかけたレストランにも。

勇気がいりました。
本当は行きたくなかったのです。

でも、仏法者として、どんな苦しい状況にも挑戦することを学んできたのです。

あえてそこの食卓で時を過ごしました。
心に平和をつくり、苦痛の全てを取り除くには、そうすることが必要だったのです。

どんなにドレスデンを愛していても、心の中に、ふと、あの何とも言い表し難い、古い感情が忍び込んでくるのでした。

そして、自分の過去に向き合った今は、苦痛なく過去を振り返る事が出来ます。

力満ちた思いで、自由に、素晴らしい未来へと向かえます。

『宇宙のリズムと調和』している自分を確信出来ます。

私の人生は、完全に転換したのです。

(以上です)