2016年11月5日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年11月 5日(土)12時24分40秒 通報 創価学会仏を名乗るということは、学会は永遠に大聖人直結でありつづけなければならないことを意味する。すべては善悪不二であり、創価学会仏も悪しく機能すれば、「学会(仏)の判断には間違いはない」という無謬に陥り、独善となる。会員一人ひとりが、短絡的思考に陥らないように注意しなければならない。大聖人に直結する創価三代の指導から離れることなく、会は運営されていかなければならない。 仏の名のつく組織であるならば、より一層、会員を犠牲にする組織主義は許されなくなる。「仏」の称号を守るためにも、おかしいものはおかしいと言っていかなければならない。それが、神札を祀ることに反対した牧口先生の精神でもある。創価学会仏を利用し、組織の方針を絶対という人間がでてきたら、それは魔王の使いである。必ずこういう輩が出現するので要注意です。そうなってしまったら、大聖人直結ではなくなる。 これを機に、創価学会仏の名にふさわしい会へと、バージョンアップさせるべきである。蔓延する組織悪に手を入れ、是正するチャンスである。創価学会仏という大義名分があれば、人間主義(仏)であることを前面に打ち出せる。雑な打ち出しなどもってのほかとなり、説明も誠実で丁寧が当たり前。それが創価学会仏なのだ。当然、最高幹部も、創価学会仏にふさわしい言動でなければならなくなる。間違っても、反対意見や懸念を表明する人を「排除」することはできないはずだ。それは、仏の振る舞いではないからだ。 創価学会を創価学会仏たらしめるには、会員の不断の戦い(人間主義であり続けること)が必須となる。どこまでいっても仏と魔との戦いだ。仏の名を印籠とし、会員を支配する他化自在天を、するどく見破る賢者であらねばならない。愚かであっては魔に支配されるだけである。 多くの会員は、創価学会仏の意味を考えないかもしれない。ただ、なんとなくすごい、すばらしいという感覚に陥りやすい言葉だと思う。私は、創価学会仏を名乗ることに、とてつもないプレッシャーを感じる。もちろん執行部も同じ(?)であるはずだ。それは、仏意に反することは、断じて許されないことを意味するからだ。もはや、力量不足(人間革命の途上)すら大目にみてもらえないことを認識させられる。 これから本部や執行部は大変だ。なにかある度に、「そんなの仏ではないではないか!」という突きあげに遭う。ちょっと増長しただけで、会員からお叱りを受け、謝らなくてはいけなくなる。なぜなら、会員のための幹部であり、会長であるからだ。この原則を覆そうものなら、即座にシバかれる世界こそが、創価学会仏なのだ。 悪を容認する仏などいない。とくに権限を有する人間に対しては手厳しい。悪に対する無慈悲の咆哮が、創価学会仏の中では、当たり前のようにまかり通る。創価学会仏を名乗るということは、そういうことなのだ。空前絶後の、悪を滅する戦いが、はじまったのだ! Tweet