投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年11月 2日(水)16時53分20秒   通報
生滅するから〝苦〟なのではなく、生滅する存在であるにもかかわらず、それが永遠に続く
常住のものとして執着するから〝苦が生じる〟のだと雪山童子は悟ったのです。

おそらく彼は三世の生命を達観していたでしょう。

〝何のため〟に、命を使うのがいちばん尊い人生であるかも分かっていた
――だからこそ、雪山童子は〝法のため〟に命を投げ出せたのではないかと思います。

つまり、雪山童子は「今世に執着しなかった」ということです。

たとえば、今世で一生懸命に努力して、家を建て、会社を起こし、
発展させたとしても、来世まではそのまま持っていけません。

また、深い絆で結ばれた家族を築きあげても、そのまま一緒に持ってはいけない。

これが現実です。

しかし、それらに執着しすぎると今世の別れ(死)が怖くなる――。

だからといって、諸行は無常なのだから今世をいいかげんに〝生きてもよい〟というのではありません。

現在の「因果」が未来世の「果報」になるという三世の生命観からみれば、
今世で〝一家和楽〟を築けば、その因果は〝業因〟として生命の奥深くに刻まれ、

必ずまた未来世においても一家和楽の人生を送っていけるのです。

大聖人の弟子であった池上兄弟が、法華経の信仰ゆえに、鎌倉幕府の要職にあった父から
「勘当」されたるなどの迫害にあったとき、大聖人はこの雪山童子の寓話を通して、

困難に遭遇したときに、その人の求道心と信心が本物であるか否かが試されている時だと教えています。

そして、

その困難は乗り越えられない〝悲劇〟ととらえるのではなく、
乗り越えられる〝試練〟ととらえる姿勢こそが大事なのだと訴えました。

つまり、日蓮仏法とは「ただ今現在をどう生きるのか」――を問い続ける生命哲学でもあるのです。
― おわり ―