2016年10月27日 投稿者:無冠 投稿日:2016年10月27日(木)01時53分34秒 通報 全集未収録の文学随想 『小説「芙蓉の人」を語る』を掲示します。 2008-8-24 文学随想 小説「芙蓉の人」を語る 笑顔は励ましの太陽! 明治時代、富士山頂で気象観測に挑んだ野中夫妻 使命に生きた千代子夫人 偉大な女性の力を証明 池田名誉会長は、入信61周年の「8・24」に寄せて、全国の敬愛する友に「文学随想」を贈った。 新田次郎の小説『芙蓉の人』を題材に、困難に挑みゆく心、使命の女性の生き方などが感動的に紹介されている。(引用等は新田次郎著『芙蓉の人』文春文庫を参照) 優雅なる 芙蓉の花の 笑顔かな 気品ある「芙蓉」の花が咲き誇りゆく季節である。 日本一の山・富士山(三七七六メートル)は、「芙蓉峯(ほう)」とも謳われる。 「芙蓉」の花にも似た、麗しい英姿のゆえであろうか。 富士の山頂は、烈風との戦いである。 しかし、いかなる烈風が吹き荒れようとも、山頂は悠然と微笑みながら、芙蓉の花の宝冠のごとく光彩を放っている。 折々に、その富士を写真に収めながら、思い出される一書がある。 小説『芙蓉の人』である。 明治時代、厳冬の富士山頂での気象観測に挑んだ、気象学者の野中到・千代子夫妻の物語である。とくに、千代子夫人に「芙蓉の人」として光が当てられている。 かつて、女性誌(「主婦の友」)から、“結婚した女性にすすめたい本”を尋ねられたとき、この『芙蓉の人』を挙げたことも懐かしい。 作者は新田次郎氏。山岳を舞台にした名作で名高い。以前、聖教新聞のてい談でも味わい深い人間観を語っていただいた。 また、夫人である作家の藤原ていさんは、聖教文化講演会で何度も講演をしてくださった。 子息であり著名な数学者の藤原正彦氏も、息女であり作家の藤原咲子さんも、聖教新聞のインタビュー等に登場してくださっている。 学術の進歩のため 道を開くのは青年の情熱 「初めから命を賭けての仕事だ」 新進気鋭の気象学者・野中到(いたる)は、慶応三年(一八六七年)に生まれた。牧口先生と、ほぼ同世代である。 夫人の千代子とともに、福岡の出身である。「火の国」九州の大情熱の持ち主であった。 野中到は、大いなる夢を抱いていた。 ──富士山頂での通年の気象観測が成功すれば、正確な天気予報が実現して、国民の利益となり、世界に日本の名を高めることにもなる、と。 なかんずく、富士山頂の高度三七七六メートルで、厳冬期に気象観測ができれば、世界でも 類例がないだけに、その意義は計り知れない。 この前人未到の挑戦には、想像を絶する困難が待ちかまえていた。 明治二十八年(一八九五年)の二月、野中青年は、厳冬の富士山の初登頂に成功した。 それ自体が、当時にあって、不可能を可能にした登山史の大記録である。 この夏、彼は、私財をなげうって、富士山頂に小さな観測所(六坪)を建て、危険を承知で、冬の気象観測を開始したのである。 「初めっから死を賭けての仕事」。これが、野中青年の決意であった。 彼は宣言していた。 ──高層気象観測は至難の業である。しかし、わずかなりとも、この学術の進歩のため、国のための助けとなりたい。 小さな観測所を建て、烈しい風と堅き氷のなか、観測を試みて、いささかでも、志ある人々の奮起を促したい、と。 青年とは先駆者である。挑戦者である。開拓者である。 すでに、でき上がった土台の上に、自分が花を咲かせるのではない。わが身を犠牲にしても、人のため、社会のため、あとに続く後輩たちのために、自分が礎となる──。 この青年の誇り高き闘魂によって、道なき道が開かれる。 創価学会の歴史が、まさにそうであった。これからも、そうあらねばならない。 こまやかな女性の目 夫人の千代子も、夫の理想を我が理想として、何があろうと成就してみせると決意する。 千代子は、夫には秘密で、気象学を学び、体を鍛錬し、登山の準備を重ねていた。 そして夫の後を追って、富士山頂に登頂したのである。 こうして、この明治二十八年の十月より、夫妻による、歴史的な気象観測が始まった。 大自然の猛威に晒された極限の状況にあって、気象観測を続けていくために、千代子の女性としての見方や行動が、どれほど大きな力となったことか。 もともと、青年・野中が設計した観測所や観測計画には、無理があった。女性であり、母である千代子の目から見れば、観測する「人間」への配慮が乏しかったからである。 千代子は、食事、栄養、睡眠時間、暖房、トイレ等々、観測する「人間」を守る、こまやかな配慮をしていった。 千代子は語っている。 「到さまは科学的にすべてを取り運んでいるつもりでいて、自分の身体に対しては、もっとも非科学的な考え方をしているのです。そして、その自分の身体が、今度の場合、一番大事なものであるということを忘れているのです」と。 山頂は酸素も少ない。高山病との戦いが続く。 壮絶な環境は、千代子の体調も狂わせた。しかし、そのなかでも、彼女は、殺風景な観測所に、せめてもの飾りつけをするなど、少しでも心が和らぐ工夫を怠らなかった。 さらに、小説には、こう記されている。 「千代子は一日に何度か声を上げて笑った。 その笑い声を聞いているだけで到は、富土山頂にひとりでいるのではないという気持になり、千代子のためにも自分のためにもしっかりしなければならないのだと思っていた」 笑いは力である。笑顔は励ましである。 とりわけ、女性の聡明な笑顔、生き生きとした声の響きこそ、皆に勝ち進む活力をみなぎらせていく源泉である。 何ごとも、根本は「人間」だ。「人間の心」である。その「心」に、明るい希望を、生きる喜びを、負けない勇気を贈り続けること──。ここに、勝利の原動力がある。 これを忘れてしまえば、本当の力は出ない。 野中夫妻は、励まし合い、支え合いながら、病気と戦い、困難と戦い、気象観測を続ける。 しかし、幾つかの肝心の観測器が、あまりに過酷な厳寒の富士の環境に耐えられず、壊れた。 心に打撃を受けた夫は、ついに重い高山病で起き上がれなくなってしまった。 その夫に代わって、千代子は観測所の主役を担っていくのである。 「(千代子は富士山頂での)冬期連続観測の記録の鎖に、彼女の手で一環一環を加えて行くことに、どれほどの意味があるかも充分知っていた。 すべては未知の記録への挑戦であった」と。 まさに、一歩一歩、一日一日が、まだ誰も成しえなかった、高層気象観測の記録である。 それは、一人の女性が命がけの執念で切り開いていった魂の尊厳の記録ともなった。 この間、家に残した最愛の娘を病気で失うという悲劇も重なった。その娘の死を、彼女は後に聞いたのだ。 あまりのショックに、深い悲しみの淵に沈んだ。 しかし、自分が生き抜くことができたのも、わが子が自分に命をくれたからだ。そう受け止めて、亡き娘とともに使命を果たすことを決意し、立ち上がっていったのである。 野中夫妻は、観測が命に及ぶ危険な状況であると知った政府の命令や、学識者や協力者の説得によって、越年の観測の中断を余儀なくされた(12月22日)。 この厳寒の富士山頂での夫妻の挑戦は、日本、いな、世界の気象観測の歴史に燦然と光る偉業となったのである。 心美しき芙蓉の人に 未来を開く貴女を讃えたい! 厳寒の富士山頂における、夫・野中到との気象観測──この千代子の戦いは、新しい女性の歴史を開く先駆ともなった。 いまだ、男尊女卑の風潮が強く、理不尽な男女差別が続いていた明治時代である。 夫を助けるために千代子が富士山へ登頂することも、気象観測に協力することも、人々は、なかなか認めようとしなかった。 気象学の権威とされていた学者もまた、同様であった。 千代子は、女性を下に見る男たちの頑迷さとも戦わなければならなかったのである。 小説の中で、彼女はこう語っている。 「学問には男も女もないでしょう」「なにかにつけて、女を軽蔑する男は許せません。そういう男の存在は日本の将来に決していいことではありませんわ」 まったく、その通りである。 女性の活躍を最大に讃えていくことだ。いずこの組織にあっても、女性が伸び伸びと力を発揮できるようにすれば、どれほど新しい発展の道が開かれていくことであろうか。 ◇ 富士山頂での戦いを、千代子夫人は『芙蓉日記』として綴った。富士山が「芙蓉峯」と呼ばれることを踏まえたのであろう。 「芙蓉」は蓮の花の別称でもある。「美しい人」の譬えとして用いられてきた。 著者の新田次郎氏は述べている。 「小説の題名『芙蓉の人』は、千代子夫人の芙蓉日記からヒントを得たものだったが、千代子夫人の当時の写真を見ても、『芙蓉の人』と云われてもいいほどの美しい人であり、心もまた美しい人だったからこの題名にした」 芙蓉の花には、凛とした品格と香気があると讃えられてきた。 昨年秋、関西を訪問した折、同志から贈られた「芙蓉」の絵が、会館に飾られていた。 私は、その真心に深い感謝を込めて、和歌を詠み贈った。 美しき 芙蓉の花は 咲き乱れ 大関西の 婦人部請えむ 大勲章 よりも偉大な 芙蓉かな 全関西の 同志を見つめむ なお戸田先生が、私の妻のことを「芙蓉の花は、香峯子だよ」と語ってくださっていたことも、忘れ得ぬ思い出である。 日本を背負う女性 野中夫妻が命を賭して取り組んだ富土山頂での冬期気象観測は、のちに国によって、富士山頂観測所が建設される礎となった。しかし、極限の状況で夫を支え、ともに戦った千代子夫人の功績に、光が当てられることは少なかった。 子息は証言されている。 「父に褒章の話がありました」「父はもし下さるならば、千代子と共に戴きたい。あの仕事は、私一人でやったのではなく千代子と二人でやったものですと云って、結局、その栄誉は受けずに終ったことがありました」 作者の新田氏は、こうした心を汲みながら、歴史の陰に隠れていた千代子夫人の活躍を浮かび上がらせていったのである。 氏は綴っている。 「野中千代子は明治の女の代表であった。新しい日本を背負って立つ健気な女性であった。 封建社会の殻を破って、日本女性此処にありと、その存在を世界に示した最初の女性は野中千代子ではなかったろうか。世界中の女性の誰もが為し得なかった、三七七六メートルという高山における冬期滞在記録の樹立は、彼女がその記録を意識してやったことではないから更にその事蹟は輝いて見えるのである」 あの地でも、この地でも、喝采のない使命の舞台で、生命を育み、地域を守り、社会を支え、歴史を創り、未来を開く女性の崇高な献身が、いかに人知れず営々となされていることか。この大功績を、最敬礼して、讃えていくことだ。その限りない智慧と努力から、学んでいくことだ。 私たちが仰ぎ見るべき「芙蓉峯」の山頂とは、一体、どこにあるのか。 それは、だれが見ていなくとも、まじめに誠実に、粘り強く、一歩また一歩と歩みを進めゆく女性たちが到達する、「勝利と栄光の境涯」なのである。 なかんずく、創価の女性たちの尊貴な行動に、各界から限りない賞讃が寄せられる時代に入っている。 仏法で説かれる「冥の照覧」は絶対である。私の妻も、世界から拝受する栄誉を、全世界の敬愛する創価の女性と分かち合わせていただきたいと、常々語っている。 千代子夫人の励まし 耐えるのです。頑張るんだわ。今が一番苦しいときなのよ。 私だってもうだめかと思っていたのが、急に好くなったのです 〈池田名誉会長を支え、女性として平和と文化の発展に貢献してきた香峯子夫人に対して、世界から賞讃が寄せられている。 中国・冰心(ひょうしん)文学館の王炳根(おうへいこん)館長は、香峯子夫人への「愛心(あいしん)大使」称号の授与の辞で語った。 「人生における、いかなる困難に直面しても、(池田先生と香峯子夫人の)お二人は、互いに励まし合い、『冬は必ず春となる』との確固たる信念に基づいて、戦う勇気を奮い起こされながら、生き抜いてこられたのです」 また、ブラジルのサント・アマ一ロ大学のソランジェ・モウラ教授は述べている。 「近代の女性は、幾多の差別や偏見に苦しんできました。そうしたなか、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長とともに、平和建設に貢献してこられた香峯子夫人が、世界の女性を代表して数多くの顕彰を受けたことは、私たち女性にとって、輝かしい未来の展望が開けてきたという象徴にほかなりません」 さらに、歌手のアグネス・チャンさんは語っている。 「香峯子夫人は、大変なご苦労をされてきた方なのでしょう。だから、ただ朗らかでいるだけでなく、周りの人まで朗らかにしてしまう、そんな朗らかさに、多くの人が励まされるのだと思います。 氷が陽の光を浴びて溶けだすように、香峯子夫人の朗らかさに相手も頑なな心を開いてしまう。香峯子夫人は、私の理想です。そして『心の母』でもあるのです」〉 自分らしく朗らかに 小説『芙蓉の人』では、零下二〇度以下にもなる富士山頂での極限状態での戦いが、迫真の筆致で描かれている。 ──過酷な環境下で重い高山病などのため、心身ともに弱り果てた野中到は、栄養をとるのに不可欠な食べ物さえも、あまり口にしなくなっていった。 思い詰めた到は、千代子に言う。 「もはやおれは死を待つしか能のない身体になった。もし、おれが息を引き取ったら、その水桶に入れて、器械室へころがして行って、春になるまで置いてくれ」 千代子は、毅然と言った。 「私の野中到は死んだらなどという弱気を吐く男ではなかったわ」 「そんなことを云うだけの力があったら、粥のいっぱいも余計に食べたらどうなんです。薬でも飲むつもりで食べたら、力が出て来て、病気なんかふっとんでしまいますわ」 そして、涙ながらに、夫を励ました。 「耐えるのよ、頑張るんだわ。私たちにとって、いまが一番苦しい時なのよ。私だってもうだめかと思っていたのが、急に快くなったでしょう」 今も富士山頂にこだまするかのような、必死の女性の叫びである。 人生には、幾多の試練がある。言語に絶する苦難を前に、「もうだめだ」と思う時もあるかもしれない。 真剣の二字で歴史を創れ”創価の女性ここにあり!”と しかし、何があろうとも、決してあきらめてはいけない。希望を捨ててはいけない。 どんな戦いにおいても、まずは自分が負けないことだ。まずは自分が真剣になることだ。そこから、一切の道が開かれる。 「芙蓉の峯」──あの富士の山頂を心に仰ぎながら、きょうも、自分らしく、明るく朗らかに、前進の一歩を踏み出していくことだ。 終わりに、蓮祖大聖人が、乙御前の母(日妙聖人)に贈られた御聖訓を拝したい。 「あなたの前々からの信心のお志の深さについては、言い尽くせません。しかし、それよりもなおいっそう、強盛に信心をしていきなさい。その時は、いよいよ、(諸天善神である)十羅刹女の守りも強くなると思いなさい。その例は、他から引くには及びません。 日蓮を日本国の上一人より下万民に至るまで、一人の例外もなく害しようとしましたが、今までこうして無事に生きてくることができました。 これは、日蓮は一人であっても、法華経を信ずる心の強いゆえであったと思いなさい」(御書1220ページ、通解) 数々の大難を厳然と勝ち越えてこられた、大聖人の絶対の御確信である。 模範とすべきは、師匠の戦いである。 「師匠のごとく!」「師匠とともに!」──この一点に徹し、強盛な信心を奮い起こして進む時、諸天は必ず動き、我らを護る。 全同志のご健康とご長寿を、妻と共に祈り、一人ももれなく幸福者に、勝利者にと心から念願し、私の文学随想を結ばせていただきたい。 Tweet