2015年2月12日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 2月12日(木)03時28分23秒 ・武田様 なるほど、ありがとうございます。「本門戒旦之願主弥四郎国重」の件ですが、他人による加筆という説もありますね。そして、板本尊自体が、日禅授与本尊のパッチワーク説が濃厚となっていますね。 また、日興跡条々事で「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之れを相伝す、本門寺に懸け奉るべし」とありますが、これ自体が偽書であるという疑いもありますね。 結局のところは本尊に関しては「よくわからない」ことであり、安易に手を出してはならないことなのだと思います。 大御本尊の概念は、よほどの確証がなければ、ひっくり返すことは混乱を招く行為であり、危険極まりない。創価学会は今回、大御本尊であろうと、書写本尊であろうと、すべて本門の本尊としてしまった。それは、脇書が後世の加筆であると断定されない限りは踏み込んではいけない領域ではないか。また、断定されたらされたで困るのも創価学会である。僧俗和合時代、大御本尊を絶対としてきた経緯があるからです。後付けでどうにかできるレベルの問題ではないわけです。 結論として、本尊問題に安易に踏み込んで「カオス」状態をつくってしまった執行部。そして引き返すことができない状態となり、後悔先に立たずとなった創価学会。まことに愚かであり、失敗です。 なお、出世の本懐は、現段階においては、一閻浮提総与の大御本尊の御建立としておくのが妥当な判断ですね。 ・虹と創価家族様 日興上人にとって、日蓮大聖人真筆本尊は、日蓮大聖人の生命そのものであり、蔑ろにすることなど絶対にありえないのだと推察します。それが弟子の姿勢であることは容易に想像できましょう。 「御本尊を認定」という言葉のなかにある違和感は、御本尊が物であることを想起させられますね。仏の生命を文字で顕しており、物ととらえることは信心ではないですね。仏の生命そのものとして拝するのが信心ですね。 お札をただの紙として蔑ろにする人がいないように、御本尊を紙(物)として扱うなんてことはとんでもないことです。ここをはき違えたからこそ、今回のような拙速な改正に踏み切ってしまったのではないでしょうか。 Tweet