投稿者:無冠 投稿日:2016年10月24日(月)18時31分52秒   通報
全集未収録の特別文化講座『創立者 ダンテを語る』を掲示します。

2008-4-23 創価学園 特別文化講座 創立者 ダンテを語る②

 ● 「知力」「体力」「人間性」を磨け
 一、学園の草創期、私は指導者になるための六つの指針を贈りました。
 1.まず人よりも、よけいに勉強し、努力しなければならない。
 2.民衆の味方になっていくこと。大衆のために戦っていく。弱い立場の人の味方となっていく。
 3.どんなことがあってもくじけない信念を持っていること。
 4.人間性のある、また、ユーモアのある、そのままの姿で語っていける人でなければならない。
 5.常に常識豊かで、納得させながら、人をリードする人。信望があり、信頼が厚く、尊敬されながら、大勢の人を指導できる人でなければならない。
 6.強靭な体力がなければならない。体力と英知を持った人でなければならない。
 以上ですが、今なら、さらに、1.に「将来、2カ国語以上の語学をマスターする」を加えたい。 ※算用数字は原文では丸数字です。

金星よ輝け友情で光れ
ダンテも寮生 寮・下宿生活が人格を育てる

 学んだ人は、自分が強くなる。人生が豊かになる。
 皆さんは、苦しんでいる人々の心が分かる指導者になってもらいたい。不幸な人を救っていける力のあるリーダーになってもらいたい。
 そのために、今は、学ぶのです。
 世界平和の大指導者を育てるのが、創価学園の使命なのです。

 晴れ晴れと 今日も努力の 勉学に  君も挑戦 指導者なるため

 ● 兄弟姉妹の麗しい関係を
 一、さて、ダンテは、ボローニャ大学の学生時代、初めて故郷を離れて生活を送りました。
 そして大学のそばにある簡素な施設で、十数人の学生と一緒に「寮生活」をしていたともいわれています。
 ダンテは大きな志を胸に抱いて、見知らぬ土地、新しい環境に飛び込んでいった。
 ヨーロッパの各地から集い来た、優れた学者や学友と出会い、若きダンテは人間的にも大きく成長していったようです。

 一、ちょうど40年前(1968年)の4月、私は、東京校の栄光寮を訪れ、1期生に根本の精神を語り伝えました。
 「先輩は後輩を、弟のように可愛がり、後輩は先輩を、兄のように尊敬していくという、麗しい気風で進んでほしい」
 「日本一、世界一の寮にしていこう!」と。
 青春時代の労苦は、無上の栄光です。
 とくに、良き学友と切磋琢磨し合う「寮生活」「下宿生活」の意義は大きい。
 それは日々の学問とともに、かけがえのない人格錬磨の道場です。
 この点については、トインビー博士とも語り合いました。
 私も訪問しましたが、博士夫妻の母校であるオックスフォードやケンブリッジなど、「世界の指導者」を育成する名門校は、いずれも「学寮」を重視していました。

 一、私も青春時代、下宿生活をしました。
 それは、お仕えする師匠・戸田先生の事業が最も大変な時代でもありました。
 親元を離れた皆さん方の苦労は、痛いほど、よくわかります。
 わが学園には、日本全国から、さらに海外からも英才が学びに来てくれている。
 お腹をすかせてはいないか、風邪をひいていないか、何か困っていることはないか……。
 いつでも、どこにいても、私と妻の心から、皆さん方のことは離れません。
 この創立者の心を心として、寮生、下宿生の皆さん方を支え、護り、励ましてくださっている、すべての方々に、この場をお借りして、厚く厚く感謝申し上げたい。

 ● 真心に「謝謝!!」
 一、関西校の男子同窓生の集いである「金星会」は、今春で約5000人の「正義」と「友情」の連帯となりました。
 13年前(1995年)には、関西校の金星寮を訪れました。
 真っ先に寮の管理者をされていたご夫妻にあいさつをしました。「寮生は私の宝ですから、くれぐれもよろしくお願いします」と。ご夫妻は懸命に寮生のために尽くしてくださいました。
 真新しい畳が敷かれた「金誓の間」。
 そこに入ると、寮生たちが待っていてくれた。
 「どんな時代、どんな立場になろうとも、君よ、金星の如く光り輝き、社会を照らし、友を照らす存在であれ!」
 皆、私の呼びかけに元気いっぱいの返事で応えてくれました。どの瞳も、すがすがしい決意に燃えていたことが忘れられません。
 実は、ダンテも『神曲』の中で、金星について記しています。彼にとって星は「希望」の象徴でした。ダンテは、天高く金星を仰ぎつつ、困難な旅路を勇敢に進んでいったのです。

 一、寮生たちとの語らいを終え、私は寮の様子を視察しました。
 ある部屋の前を通ると、「池田先生ありがとうございます!!」と筆字で書かれた、手づくりの横断幕が掲げられていました。大学ノートをつないだものだったから、時間のない中、寮生が真心込めて作ってくれたのでしょう。
 私は、その心がうれしくて、横断幕の余白の部分に、「謝謝!!」(中国語で「ありがとうございました」)と赤ペンで返礼の言葉を綴りました。
 その晩に行われた懇親会では、寮生・下宿生の皆さんと夕食をともにしました。私は、皆の健康と成長を祈りつつ、関西ゆかりの師弟の曲”大楠公”や「荒城の月」「熱原の三烈士」をピアノで弾き、贈りました。

 ● 尊敬でつくられた友情は永続的
 一、ダンテは、同世代の友と寝食をともにし、夢を語り合い、深き友情を結び広げていった。
 友人が大切です。どんなに社会で偉くなっても、心から分かり合える友のいない人は不幸だ。
 また友人といっても、遊びだけのつき合いの人もいるだろうし、さまざまです。その中で、最高の友人とは、最高の主義主張で結ばれた人です。別の言葉で言えば、高い志を同じくする友人です。
 中国に「患難見真知(フアンナンジエンツエンツ)(困難な時こそ、真の友が分かる)」との言葉があります。

ダンテを雄弁にしたものは何か
「真理への愛」と「虚偽への怒り」

 困った時に助けるのが友情です。順調な時はいいが、状況が悪くなると離れていくのは友情ではない。
 皆さんは、どんな時も、一生涯、離れない、真の友情を結んでいってもらいたい。
 私の人生の誇りは、ただ誠実の一点を貫いて、嵐に揺るがぬ友情を築いてきたことです。
 「尊敬によってつくられた友情が真実で完全で永続的である」(中山訳『ダンテ全集第5巻』同)
 これは、ダンテの友情観です。
 尊敬できる、よき友を持つこと。そして、自分自身も尊敬に値する、よき友となっていくこと。
 ここに、誇り高き青春の名曲が奏でられていくのです。

 ● 暴力は許さない
 一、私と妻が出会いを重ねた、アメリカの「人権の母」ローザ・パークスさんは、お母さんからの教えを一生涯の指針とされていました。
 それは、「自尊心を持ちなさい。人から尊敬される人間になり、また、人を尊敬していきなさい」ということです。
 パークスさんは、「人間の尊厳」を守るために命を懸けて戦いました。
 人を見下したり、いじめたり、侮辱して、相手を苦しめることは、暴力にも等しい。
 軽い気持ちでやったことが、取り返しのつかない深い傷を与えることだってある。
 わが創価学園は、絶対に暴力否定です。いじめも断じて許さない。
 互いの尊敬と信頼と励まし合いで結ばれた、世界一、美しい友情の城です。
 この尊い伝統を確固と受け継ぎながら、さらに賢く朗らかに前進していってください。

 一、ダンテは、数学の「ピタゴラスの定理」で有名な、古代ギリシャの哲学者ピタゴラスの言葉を大切にしていました。
 それは、「友情において、多くのものが一つにせられる」(中山訳『ダンテ全集第6巻』同)という一言です。
 このピタゴラスが活躍したシチリアの天地に立つ、イタリアの名門パレルモ大学とも、私は深い交流を結び、「名誉コミュニケーション学博士号」を拝受しました。
 私が世界に開いた「友情の道」を受け継ぐのは学園生の君たちです。
 そのためにも、今は、語学にも大いに挑戦し、平和と正義の「友情の大連帯」を世界中に広げていってください。

 学園は  一生涯の  宝の連帯
 ● 言論の勇者に
 一、ともあれ、青春時代の読書、そしてボローニャ大学での2年におよぶ研鑽は、ダンテの人格形成と文学の大きな土台となりました。
 それは真理と真実の探究の日々でありました。
 真実を見つめ求める青年は、虚偽を許さない。
 「悪魔は嘘つき、嘘の父親」とは、ダンテの『神曲』の一節です(中川祐弘訳、河出書房新社)。
 卑劣な嘘は悪魔の所業であるとの洞察です。
 「真理に対する愛と、および虚偽に対する憎悪とにおいて、反駁しよう」(中山訳『ダンテ全集第7巻』同)──ダンテの胸には、この烈々たる情熱が燃え盛っていたのです。
 ゆえに、ダンテは、だれにも負けない「言論の力」を鍛え上げていきました。
 ”ダンテは並外れて雄弁であった”と讃嘆されている。その弁論には、悪人の気力さえも削ぎ取る説得力があったとも伝えられています。
 この研ぎ澄まされた英知と雄弁の力で、ダンテは信頼を勝ち取り、30代で、大都市フィレンツェの最高指導者となっていきました。
 この点、東京校の「創価雄弁会」、関西校の「ディベート部」をはじめ、学園生の「英知の力」「雄弁の力」「文筆の力」は、日本随一です。
 今、世界でも、若い雄弁の指導者が台頭しています。
 青年の時代です。そして学園生の世紀です。
 「自分の信条を堂々と述べ、正義のためには、勇気をもって実行する」
 これが、わが学園の誉れの校訓の一つです。
 「学園生よ、ダンテの妬く大雄弁の指導者と育て!」と、私は強く申し上げておきたい。

 弁論は 世界に平和を  打ち立てる  最も正しき 法理なるかな

使命の山を登りゆけ 負けじ魂ここにあり!
平和の人材光る学園城を
『ダンテ』 正義か強ければ世界は善くなる

一、万葉の里・交野の天地に広がる、わが関西創価学園は、「蛍」が飛び交うロマンの城です。
 私の提案に応えて、関西学園の友が情熱を傾けて育ててきた蛍が、最初に夜空に舞ったのは、29年前(1979年)の5月のことでした。
 この蛍をはじめ、東西の学園では、桜、蓮、鯉、白鳥など、さまざまな自然の命が大切に保護されています。
 関係者の皆様の尽力に心から感謝申し上げます。

 ● 奇跡の連帯・蛍会
 一、私は、関西学園の女子同窓生の集いを「蛍会」と命名しました。現在、「蛍会」の友は約6000人。
 美しき「誓い」と「励まし」で結ばれた「奇跡の連帯」となりました。
 私は本当にうれしい。

 蛍会  一人ももれなく  幸(さち)光れ

 実はダンテの『神曲』にも、夕暮れ時、農夫が蛍を見つめる光景が詩情豊かに描かれています。
 きっとダンテも少年時代、フィレンツェの森に舞う蛍を見つめ、詩心を膨らませたのでしょう。
 蛍は、平和と共生の象徴でもあります。

 一、「世界は、そのうちに正義が最も有力であるときに、最も善く傾向づけられてある」(中山昌樹訳『ダンテ全集第8巻』日本国書センター)
 ダンテの獅子吼です。
 この世界を、平和の方向へ、幸福の方向へ、繁栄の方向へ、調和の方向へと前進させていくためには、正義が厳然たる力を持たねばならない。
 これがダンテの一つの結論であった。
 では、正義が力を持つためには、どうすればよいのか。
 それは、一人でも多く、力ある正義の人を育てることです。
 その使命を厳として担い立つ「教育の大城」こそ、わが創価学園なのです。

 幸福と  平和の土台の  学園城

 ● ケランジェロもダンテに共感
 一、ダンテが心から愛した故郷フィレンツェは、ルネサンスの文化が花開いた「芸術の都」として世界的に有名です。
 光栄なことに、このフィレンツェ市から私は、意義深き「フィオリーノ金貨」と、最高栄誉の「平和の印章」をお受けしています。
 ともに授章式は、フィレンツェ市の由緒あるヴェッキオ宮殿(市庁舎)で行われました(1992年6月、2007年3月)。
 同宮殿内の「五百人広間」には、ルネサンスの大芸術家ミケランジェロが創作した凛々しき青年の彫像「勝利」が設置されています。
 ミケランジェロも、200年前の先哲ダンテの文学に啓発された一人です。
 熱血の彼は、横暴な権力悪を許さぬダンテの強き魂に共感を抱き、よく論じていたという。
 ミケランジェロの傑作である「最後の審判」の壁画は、ダンテの『神曲』から影響を受けています。
 ダンテの文学は、ルネサンスの文化を発展させゆく大いなる原動力ともなりました。

哲人政治家ダンテの信念
 政治は誰のために?すべては人民のために!!

 ● 二つ目の苦難
 一、ダンテが生きた当時のフィレンツェは、ヨーロッパで最も人口の多い都市の一つでした。
 「フィオリーノ金貨」が鋳造され、経済の中心としても、堂々たる興隆を誇っていた。
 そのフィレンツェの哲人政治家としてダンテが登場したのは、30歳の年です。
 そして、その5年後には、最高指導者の一人に選出されています。
 ダンテの胸には「正しき政治」「正義の社会」の理想が明確に思い描かれていました。
 「市民は執政官(政治家)達のためにでなしに、また人民の王のためでなくて、逆に、執政官達は市民のために、王は人民のために存在する」(中山訳『ダンテ全集第8巻』同)と。
 為政者のために人民がいるのではない。
 人民のために為政者がいるのだ。
 この「何のため」という一切の原点を見定めていたのが、ダンテです。
 だから強かった。
 一、ダンテは、古代ギリシャの大哲学者アリストテレスの英知を学びました。
 その言葉を通して厳然と主張しています。
 「邪曲(じゃきょく)な政治の下にあっては善人は悪しき市民である」(同)と。
 悪い権力、悪い政治のもとでは、善人こそが悪人にされてしまうというのです。
 この狂った悲劇が、残念ながら、人間社会では際限なく繰り返されてきました。
 そして、まったく同じ事態が、ダンテにも襲いかかったのです。
 ダンテが最愛の人々との死別に続いて直面した、二つ目の苦難が、ここにありました。
 その過程を簡潔に見ておきましょう。

正しいからこそ迫害される 卑劣な陰謀が悪の手口

 ● 事実無根の罪
 一、絶大な権力を持っていた、時のローマ教皇ボニファティウス8世らは、美しき都市フィレンツェを自らの勢力下に収めようと狙っていました。
 この宗教権力者の一党は、自分に従うフィレンツェの勢力と結託し、謀略をもって、フィレンツェを乗っ取ろうとしたのです。
 そして、彼らの攻撃の標的にされた一人が、ダンテであった。
 ダンテは、「わが故郷のために!」「愛する祖国の自治と独立のために!」と断固たる闘志を燃え上がらせて、故郷を支配しようとする勢力の動きに、頑強に反対し、抵抗したからです。
 そこで、ダンテが公務でフィレンツェを離れている間に、権力を掌握した政敵たちは「欠席裁判」を行った。
 そして事実無根の罪をでっち上げた。
 彼らは、「ダンテは公金を横領した」「教皇庁に対する陰謀を企てた」などという罪状を並べ立てたといわれている。
 しかし、すべてが濡れ衣であった。
 ダンテを陥れようとする「冤罪」であった。
 「陰謀を企てた」のは、ダンテを無き者にしようとする敵のほうだったのです。
 これが正義の人を陥れる手口です。
 仏典では、陰謀の悪人に対して、「確かな証人を出せ! もし証拠がないというならば、自分が犯した罪をなすりつけようとしているのだ。糾明すれば分かることだ」と呵責されています。

 一、ダンテは「国外追放」されました。
 戻れば「火あぶり」にされるという。
 だれよりも、フィレンツェを愛し、フィレンツェのために戦い続けてきたダンテは、いわれなき罪人の汚名を着せられて、フィレンツェを追い出されました。
 そして56歳の死まで、二度と故郷の土を踏むことなく、受難の生涯を送ったのです。

 ● 正義とは?
 一、ダンテは、苦難の嵐の中で、人間の根本問題を真正面から見つめました。
 「なぜ、この世界では悪人がもてはやされ、わがもの顔で、のさばっているのか?」
 「一体、人の世に『正義』はあるのか?」
 「人道──人として歩む道は、どこにあるのか?」
 自分自身が迫害に遭ったからこそ、その思索は計り知れないほど深まったのです。

 一、正義とは、何でしょうか。
 人間にとって、正しい道、正しい生き方とは、どのような生き方なのでしょうか。
 これは、本当に重要な問題です。また難しい問題です。
 例えば、第2次世界大戦中、日本では、戦争に反対すれば、「犯罪者」とされました。
 しかし、敗戦後には、戦争に反対した人が、「正義」と賞讃される時代が来た。
 何が正しいのか。何が間違っているのか。真実は、どこにあるのか。
 表面的な世評などに流されては、あまりに愚かであり、不幸です。
 物事の奥底を見抜いていく「英知の眼」を磨いていかなければならないのです。

 ● 民衆の側に立て
 一、かつて私は、東京校2期生の卒業のはなむけとして、次のように語りました。
 ”皆さんには、正義の人になってもらいたい。具体的に言えば、悩める人、苦しんでいる人、不幸な人の味方となってほしいのです”
 ”将来、どのような地位につこうとも、庶民の側に立ち、人間生命の尊厳を守りゆく人であっていただきたい”と。
 ダンテもまた、「権力の側」ではなく、「民衆の側」につきました。
 「人が苦しもうが、どうでもいい」「事を荒立てたくない」と思って静かにしていれば、弾圧などされなかったでしょう。

『ローマの哲学者』
悪人がどんなに暴れても 賢者の月桂冠は光り輝く

 しかし、ダンテは、「人民のため」との信念を曲げなかった。わが正義に生きた。
 正義であるがゆえに、迫害される──。
 これが歴史です。これが現実です。
 ゆえに、重ねて申し上げたい。「正しい眼」を磨き、「強い心」をつくっていかなければならないのです。

 一、私は、創価大学で、「迫害と人生」と題して講演を行ったことがあります。〈1981年(昭和56年)10月31日〉
 そこで私は、さまざまな中傷、迫害と戦った人物──菅原道真、屈原(くつげん)、ユゴーら東西の詩人、思想家ルソー、画家セザンヌらの生涯に言及しました。
 とくに、悪い政治権力と悪い宗教権力は、結託して、正義の人を弾圧する。
 創価教育の創始者である、牧口常三郎先生と戸田城聖先生を苦しめた迫害の構図も同じでした。
 お二人の不二の弟子であるがゆえに、私も同じ難を受けてきました。しかし私は、「戸田大学」に学んだ師子です。ゆえに何があっても絶対に負けない。
 また私には、愛する青年たちがいます。学園生がいます。ゆえに何があろうとも必ず勝たねばならないのです。

 ● 「学園生はどうするのですか?」
 一、私は、創価の友に贈った詩の中で次のように綴りました。

 ある日 ある時 ふと  私は妻に漏らした
 「嫉妬うず巻く  日本を去ろう
 世界が  待っているから」

 その時 妻は  微笑んで言った
 「あなたには  学園生がいます
 学園生は  どうするのですか?
 きっと  寂しがりますよ」

 そうだ!
 そうだ 学園がある!
 未来の生命たる 学園生がいる!
 君たちのためなら 私は
 いかなる迫害も いかなる中傷も
 いかなる試練も まったく眼中にない

 このように詩に詠んだ私の思いは、今も何ら変わることはありません。

③に続く