2016年10月22日 投稿者:無冠 投稿日:2016年10月22日(土)08時54分19秒 通報 全集未収録の特別文化講座『キュリー夫人を語る』を掲示します。 2008-2-8 創価女子短期大学 特別文化講座『キュリー夫人を語る』② 『キュリー夫人』一人一人の個人の運命を改善することなくしてよりよき社会は築けない 親孝行の娘であれ 父への手紙 「私は永遠に感謝を忘れません」 ● 真心の手紙 一、もっと収入を多くするため、マーニャは親元を離れ、ポーランドの地方に出て働く決心をします。 愛する父に別れを告げ、汽車で3時間、橇(そり)で4時間。生まれてはじめて、家族と遠く離れての生活となりました。 この間、マーニャは、何度もワルシャワのお父さんに手紙を書き送っています。 彼女は、父思いの心の優しい娘でした。 老いた父は、自分に大きな収入がなく、しかも投機の失敗で財産を失い、子どもたちに十分な教育を受けさせてあげられないことを、ずっと気に病んでいました。 けれども、そんなお父さんに、マーニャは綴っています。 「わたくしは、おとうさまがわたくしにかけてくださったご厚恩にたいして、永遠に感謝の念を忘れないつもりでおります。 わたくしの唯一の悲しみは、わたくしたちの受けたご恩をお返しすることができないことです。人間の力でできるだけ、おとうさまを愛し敬うことしかわたくしたちにはできません」 (エーヴ・キュリー著、川口篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水社) 娘から、こんな手紙を受けとったお父さんは、どれほどうれしかったことでしょう。 この親孝行の振る舞いのなかに、マリー・キュリーという女性の深き人間性と知性が凝結していることを、賢き皆さんは感じ取ってください。 仏典には、「親によき物を与へんと思いてせめてする事なくば一日に二三度え(笑)みて向へとなり」と説かれています。 親孝行といっても、特別なことではない。 「一日に、二、三度の笑顔」でもいい。元気な声でもいい。親元を離れている人も、今は電話があります。もちろん、手紙も、葉書もあります。 大切なのは「心」です。「真心」です。「智慧」です。 「親孝行」が、人間としての成長の証しなのです。 ● 誇りも高く試練を越えよ 一、この地方で募らした家庭教師の3年間は、マーニャにとって、辛抱の時でありました。 勉強も続けましたが、まったくの独学です。 憂鬱もあった。焦りもあった。 絶望もあった。落胆もあった。 しかし、彼女は、ある手紙にこう書いています。 「とてもつらい日々がありました。でも、その思い出を和らげてくれる唯一のものは、いろいろあったにもかかわらず、正直に誇り高く、それを乗り越えることができたということです」(スーザン・クイン著、日中京子訳『マリー・キュリー1』みすず書房) 青春時代は、悩みの連続です。どれも皆、自分が強く、賢く、大きくなっていくために必要な試練なのです。 それらを、マーニャのように、「誇り高く」乗り越えていってください。 一、マーニャは独学を続けるうち、科学の分野で社会に貢献しようと思うようになりました。 姉がパリに発ってから5年。 医者としての道を歩み始めた姉から、パリに来るようにとの手紙が、ついに届きました。 マーニヤは、父を残していくことを考えると、後ろ髪を引かれる思いでしが、パリ行きを決意します。 そして、1891年11月、父に見送られながら、ワルシャワの駅を出発したのです。 「ああ! 女子学生の青春は 早瀬のようにすぎていく まわりの若者たちはつねに新しい情熱で 安易な楽しみに 走るばかり! 孤独のなかで 彼女は生きる 手さぐりしながら けれど幸せに満ちて 屋根裏の部屋で 思いは燃え 心ははてしなく 広がっていくから」(前掲、河野万里子訳) これは、マリー・キュリーが、母国語のポーランド語で書いた詩の一節です。 姉のブローニャは医師の免許をとり、パリでポーランド人男性と結婚していました。 パリで留学生活を開始したマリーは、当初、姉夫婦と一緒に暮らしましたが、勉学に専念できる環境を求めて、大学に近いカルチェ・ラタン(学生街)で一人暮らしを始めます。 1989年の6月、私は、創価大学と教育交流を結んだパリ第5大学を訪問し、オキエ学長らの温かき歓迎をいただきました。 多くの英才たちとも語り合いました。 カルチェ・ラタンの街並みを、青年とともに歩いたのも、思い出深いひとときとなりました。 ちなみに、今日の「パリ大学」とは、フランスのパリを中心に存在する13の大学の総称です。 このうち、パリ第6大学は、現在、キュリー夫妻の名前を冠して、「ピエール・エ・マリー・キュリー大学」と呼ばれています。 ● 「今までの百倍、千倍の勉強を!」 一、希望にあふれて、パリでの勉強を始めたマリーでしたが、思わぬ壁にぶつかりました。 フランス語には十分な自信があったのですが、実際に講義を受けてみると、聞き取れなかったり、ついていけなかったりすることが、たびたびあった。 わが留学生の皆さんの苦労にも通ずることでしょう。 さらに、自分なりに積み重ねてきた独学の知識が、同級生たちに比べて、あまりにも貧弱であることがわかってきました。 しかし、そのようなことで、くよくよと落ち込んでいるマリーではありませんでした。 勉強が足りない? では、もっと勉強すればいい! まだ足りない? では、もっともっと勉強すればいい! 今までの十倍、百倍、いや、千倍も! 一人暮らしを始めたマリーは、きっぱりと「千倍も猛勉強している」(前掲、田中京子訳)と書いています。 ● 使命ある留学生 一、パリの学生生活で、はじめマリーは、なかなか仲間と打ちとけられませんでしたが、やがて学問の情熱に意気投合し、多くの親しい友人ができていきます。 また、このころ出会ったマリーの友人には、その後、世界的な音楽家となり、ポーランドの首相になるような人物もいました。 留学生の方々は、それぞれの国の指導者となっていく、深き使命を帯びています。 マリーは、のちに大成してからも、各国からの留学生や研究者を、真心こめて大事にしました。それぞれの祖国への賛辞も、惜しみませんでした。 「あなたの美しいお国は、よく存じています。お国の方がたは、わたしをほんとうに歓迎してくださいました」(前掲、河野万里子訳)等と。 私は、留学生の方々は、その国の宝の人材であるとともに、人類全体の「平和の宝」であり、未来への「希望の宝」と思っております。 ● 屋根裏の日々がわが「英雄時代」 一、このころ、マリーが一人暮らしをしたのは、7階建ての建物の屋根裏部屋でした。 当時、マリーは、父からの少しの仕送りと、自分の貯金とを合わせて、わずかなお金でやりくりしなければなりませんでした。 冬は、暖房の石炭代を節約するためにも、ずっと大学や図書館で勉強。家に帰って、寒さに震えながら、さらに勉強。 「わたしは自分の勉強に専念した。わたしは時間を講義と実験と図書館での自習に分けた。夜は自室で勉強する。ほとんど徹夜のこともある」(前掲、田中京子訳) 何週間もの間、バターをぬったパンしか食べられないこともありました。くだもの一つ、チョコレートひとかけらが、どれほど大切な滋養であったか。 しかし彼女に、わびしい悲愴感はありませんでした。むしろ、澄みきった明るさを抱いていました。 自分の大いなる目標のために苦労することは、苦しみではない。 むしろ、喜びである。誇りである。青春時代の苦労こそ、不滅の財宝なのです。 「この期間がわたくしに与えてくれた幸福は、筆にも口にもつくせぬほど大きなものでした」 「未知のことがらをまなぶたびによろこびが胸にあふれる思いでした」(前掲、木村彰一訳)──マリーの後年の述懐です。 華やかな社交がなくとも、古今の大偉人たちとの心躍る知性の対話があった。 贅沢な御馳走がなくとも、人類の英知の遺産が豊かに心を満たしてくれた。 流行のファッションがなくとも、大宇宙の真理の最先端の発見が光っていた。 彼女は、どんな殿堂よりも荘厳なる「学問の王国」で、王女のごとく青春を乱舞していたのです。 マリー・キュリーにとって、貧しさと孤独の中で、全生命を燃焼させて勉学に励んでいった、この時期は、「生涯における英雄時代」であったと言われています。 ● 深き青春の原点を胸に 一、私も妻も大好きな歌に、短大の愛唱歌「白鳥よ」があります。 白鳥よ 深き縁の 白鳥よ いづこより来し 碧き泉に 青春 二歳(ふたとせ) 誉れあり 未来みつめて いつの日か ああ聡明の笑み光る 白鳥よ 清き心の 白鳥よ いづこより来し 緑の丘に 青春 二歳 誉れあり 平和語りて いつの日か ああ幸福の華開く 白鳥よ 澄みし瞳の 白鳥よ いづこより来し 理想の庭に 青春 二歳 誉れあり 心鍛えて いつの日か ああ大空へ舞い上る この歌に高らかに歌い上げられているように、皆さん方にとっては、この短大での「青春二歳」が、かけがえのない「人生の誉れの英雄時代」なのであります。 二女のエーヴ・キュリーは、母親の学生時代について、「彼女がつねに仰望(ぎょうぼう)した人間の使命の最高峰にもっとも近い、もっとも完全な時代であった」(前掲、川口篤ほか訳)と述べています。 猛勉強の結果、マリーは、1893年に物理学の学士試験を1番で、翌年は数学の学士試験を2番で合格しました。 「激しいぜいたくと富への欲望の支配する我々の社会は学問の値打を理解しない」(ウージェニィ・コットン著、杉捷夫訳『キュリー家の人々』岩波新書) これは、マリーの慨嘆です。今は残念ながら、マリーの時代以上に、そうした風潮に満ちているかもしれません。 しかし、だからこそ、わが短大の真剣な向学と薫陶の校風が、清々しく光ります。 マリーは、勉学に明け暮れた屋根裏部屋を「いつまでも 変わらずたいせつな 心の部屋」と謳いました。 「そここそ ひとりひそやかに挑み その身を鍛えつづけた場 今もあざやかな いくつもの思い出にいろどられた世界」と振り返っているのです(前掲、河野万里子訳)。 悩みに直面したときに、立ち返ることのできる原点をもった人生は、行き詰まらない。この短大のキャンパスは、皆さん方の永遠の前進と勝利の原点の天地です。 ● 学問に王道なし 一、短大の「文学の庭」には、マリー・キュリー像に向かい合うようにして、ハナミズキの木が植えられています。 桜花の季節が終わると、そのバトンを託されたように、ハナミズキが一斉に開花して、行き交う新入生たちの心を明るく照らします。 これは、キュリー像が除幕された1カ月後、あのアメリカの人権の母、ローザ・パークスさんが来学され、記念植樹してくださった木です。 1992年、創価大学ロサンゼルス分校(当時)を訪問したパークスさんを、語学研修中だった短大生が歓迎しました。パークスさんは、この出会いを、生涯の宝とされておりました。 「彼女たちとの出会いは、私の一生における新しい時代の始まりを象徴するように思えてなりません」とまで語っておられました。 その2年後、誕生したばかりのキュリー像が見守るなか、パークスさんが八王子の短大と創価大学を訪れました。 キャンパスを案内したとき、「万葉の家」のそばで、私の言葉が刻まれた石碑を、じっと見つめておられた姿が印象的だったそうです。 この言葉を、今ふたたび、皆さんに贈ります。 「学問に王道なし 故に学びゆく者のみが 人間としての 王者の道を征くなり」 わが母校 見つめて勝ちゆけ 我が友と 人間の本当の美しさ──それは生命が放つ光彩 理想をめざして打ち込む生命こそ、最も尊い 一、私が家族ぐるみで親しく交流させていただいた方に、「現代化学の父」ライナス・ポーリング博士がおられます。博士はキュリー夫人に続き、二つのノーベル賞を受賞した知の巨人です。 1990年、創価大学のロサンゼルス分校(当時)で、研修中だった短大生と一緒にポーリング博士を歓迎しました。 「笑顔で迎えてくださり、うれしい。こちらまで笑顔になります」と、博士は喜色満面であられた。 ポーリング博士は若き日、夫妻でヨーロッパに行き、マリー・キュリーのもとを訪問することを考えていたようですが、実現はしませんでした。 ポーリング博士も、マリーと同じく、幼き日に親を亡くしています。〈9歳で父が急死〉 病弱なお母さんや、妹たちを抱え、経済的にも苦しい」若き博士は、道路舗装の検査員など、さまざまな仕事をして家族を支えながら、忍耐強く努力を貫き通し、自分自身を鍛え上げた。そして、苦学に苦学を重ねて、世界的な業績を残していかれたのです。 心強き人にとって、苦労は、ただの苦労で終わらない。苦労は「宝」である。 学生時代の労苦を振り返って、博士は「どうしても一生懸命に長時間働く必要があったので、懸命に長時間働く習慣が身についたことはプラスだと思います」と、さわやかに語っておられました。 ポーリング博士が受けた二つのノーベル賞は、「化学賞」と「平和賞」です。博士の核廃絶と平和への貢献は、最愛のエバ夫人と一体不二の戦いでした。 「私が平和運動を続けてきたのは──『妻から変わらぬ尊敬を得たい』と思ったからでした」 そう率直に語っておられた博士の声が蘇ります。 崇高な理想に結ばれた夫婦──ポーリング夫妻も、そしてキュリー夫妻も、まさしくそうでした。 ● 正義の人を正しく評価 一、マリーがピエール・キュリーと初めて出会ったのは、1894年の春のことです。マリーは26歳、ピエールは35歳でした。 このときすでにピエールは、物理学の世界で、いくつかの重要な業績をあげていました。しかし、いわゆる有名校を出ていなかったため、国内ではあまり評価されていなかった。 ピエールは生涯を通じて、名声を得ようとか、自分を売り込もうとか、少しも考えなかった人です。”評価されるのは誰であれ、人類のために科学が発展しさえすればいい”という高潔な信念の持ち主でした。 しかし、心ある人は、ピエールの力と功績を知っていました。英国の大物理学者ケルビン卿など、具眼の士から、特に国外で高く賞讃されていたようです。 ケルビン卿は、あのグラスゴー大学の教授でありました。 グラスゴー大学は、名もなき職人ワットを擁護し、ワットは「蒸気機関」を開発。産業革命の新時代を開く原動力となりました。 グラスゴー大学には、いかなる偏見や風評にも左右されず、正義の人を正しく評価せずにはおかないという信念の気風が脈打っています。 マリー・キュリーは、このグラスゴー大学をはじめとする世界の大学・学術機関から、21の名誉博士号・名誉教授称号を受けています。〈創立者には1994年6月、グラスゴー大学から名誉博士号が贈られている〉 ピエールは、自然を深く愛する人物でした。文化の国・フランスへの感謝を込めて私が創立したヴィクトル・ユゴー文学記念館はビエーブルにありますが、ビエーブル川周辺の森も、よく散策していたようです。 ピエールもマリーも、過去に恋愛で苦い経験をしており、二人とも、そうしたことには重きを置いていませんでした。学問こそが、二人の恋人でした。しかし、出会ったときから、お互いの中にある、崇高な、その魂に気づいたのです。 二人は、科学に関する語らいや、手紙のやりとりなどを通じて、お互いへの尊敬の念を深めていきました。 しかし、生まれた国が違うなど、いくつかの障害もありました。特にマリーには、祖国ポーランドに帰って、同胞のために尽くしたいという願いがありました。 結婚に際しては、ピエールのほうが強い熱意を持っていたようです。 二女のエーヴは、母の美しさについて、「ほとんどなにもないような小部屋で、着古した服に身をつつみ、情熱に輝く意志の強い面差しのマリーほど、美しく見えたものはなかった」(河野万里子訳『キュリー夫人伝』白水社)と綴っております。それは「内面の精神性」の輝きであり、自らの力で勝ち取った深き人格の美しさでもありました。 人間の本当の美しさ、それは「生命」それ自体の光彩でありましょう。大いなる理想を目指して真剣に打ち込む生命こそ、この世で最も美しい光を放つのです。 ● 理想主義から精神的な力が 一、牧口先生は、「遠大な理想をいだき、目的観を明確にしながら、身近な足もとから実践するのが正視眼的生活である」と訴えておられます。マリーは、この「正視眼」を持った女性でした。 のちに長女のイレーヌは、母マリーの結婚観は「生活のよき伴侶となれる夫が見つかったときにだけ、結婚すべきであるという考えでした」(内山敏訳『わが母マリー・キュリーの思い出』筑摩書房)と書いています。 さらにまた、マリーは、二女のエーヴに、このように書き送りました。 「わたしたちは理想主義のなかで、精神的な力を求めていくべきだと思います。 理想主義によって、わたしたちは思いあがることなく、自分のあこがれや夢の高みに達することもできるのです。 人生の関心のすべてを、恋愛のような激しい感情にゆだねるのは、期待はずれに終わると、わたしは思っています」(前掲、河野万里子訳) 真摯に人生を生き抜くなかで深めてきた恋愛観であり、結婚観であるといってよいでしょう。 この点、私の恩師の基準は明快でした。 「恋愛をしたことによって両方がよくなれば、それはいい恋愛だ」「両方が駄目になってゆくようであれば、それは悪い恋愛だ」と。 ● 信念を深く共有した結婚 一、マリーは自ら書いたピエールの伝記の中で、科学の発展に生涯を捧げた大学者パスツールの次の言葉を引いています。 「科学と平和とが無知と戦争とにうち勝つであろう」(渡辺慧訳『ピエル・キュリー伝』白水社) この言葉は、二人の共通の信条とも言えるものでした。 信念を深く共有できたからこそ、ピエールとマリーは結婚を決めたのでありましょう。 結婚のため、マリーはずっとフランスで暮らすことになりましたが、ポーランドの実家の家族は、皆、心から祝福してくれました。 結婚という、人生の大きな決断をする際には、お父さんやお母さん、そして、よき先輩や友人と、よく相談して、皆から祝福される、賢明な新出発を心がけることが大切です。 ピエールとマリーの結婚は、1895年の7月26日でした。 結婚式は、親しい家族や友人だけで祝う清々しい集いでした。 豪華な衣装も、ごちそうも、結婚指輪もありませんでした。 二人とも、財産といえるようなものは何も持っていなかった。しかし、そこには誠実な心が光り、聡明な知恵が冴えわたっていました。 ”新婚旅行”は、自転車に乗って、フランスの田園地帯を駆け回ることでした。 そして、多くはない収入でやりくりするための家計簿を買ったのです。 私と妻の結婚に際しても、恩師からアドバイスをいただいたことの一つは、「家計簿をつけること」でした。現実の生活を、一歩一歩、賢明に、堅実に固めていった人が、勝利者です。 マリーとピエールの二人の新生活は、めぼしい家具など何一つない、質素なアパートで始まりました。 「わたくしたちは、そこで生活し、そして仕事をすることのできる小さな一隅以上のものは望んでいませんでした」(木村彰一訳「キュリー自伝」、『人生の名著8』所収、大和書房)と、マリーは綴っています。 ● 科学の世界の新しい扉を開く 一、結婚から2年が経ち、マリーは長女イレーヌを出産して母となりました。博士号を取得する研究の取り組みも始まりました。 当時、フランスの物理学者アンリ・ベックレルは、「ウラン化合物が不思議な放射線を発すること」を報告していました。 この現象の正体は何か? なぜ、このような現象が起きるのか? まだ、ほとんど誰も手をつけていなかったこの現象の究明が、マリー・キュリーの挑戦となりました。 さまざまな実験を重ねた末に、キュリー夫妻は放射線を発する性質を「放射能」と名づけました。 さらに、調べている物質のなかに、まだ人類に知られていない元素があることを突き止めていったのです。 この解明によって、マリーは、物理学における「新しい世界」の扉を大きく開く一人となりました。 すなわち、マリーをはじめ、優れた科学者たちの心血を注いだ研究の積み重ねによって、それまで物質の最も小さい単位と考えられていた「原子」は、さらに小さい「素粒子」で構成されており、そこには限りない可能性が広がっていることが明らかになっていったのです。 ● 故郷を忘れない 一、ピエールとマリーは、初めて発見した元素を「ポロニウム」と名づけました。 マリーの祖国ポーランドへの、万感の思いを込めた命名です。 彼女は、その研究論文を、かつてお世話になったポーランドの恩人に送りました。 今なお圧制のもとで苦しんでいる故郷の人々の存在は、彼女の胸から片時も離れることはなかったのです。 現在、うれしいことにこのポーランドでも、またフランスでも、さらにヨーロッパ各地をはじゆ世界中で、短大白鳥会のメンバーが生き生きと活躍されています。 ● ヤング・ミセスの溌刺(はつらつ)たる活躍 一、さらにマリーは、第2の未知の元素を発見しました。 二人はその元素を「ラジウム」と名づけました。ラジウムとは「放射」を意味するラテン語に由来します。 これらは、若き妻として家庭を支え、母として幼子を育みながら積み重ねていった業績です。 いわゆる「ヤング・ミセス」と呼ばれる年代に、マリーは、現実と悪戦苦闘しながら、その持てる生命の智慧と力を、遺憾なく発揮していったのであります。 皆さんの多くの先輩方も、全国各地で、「ヤング・ミセス」のリーダーとして溌剌と前進されています。 短大出身者の弾けるような生命の息吹と、同窓の麗しき励まし合いの絆は、新時代の希望と光っており、私と妻は、いつも喜んでいます。 ● 明確な実証を 一、マリーにとって、果てしなく困難な作業が待っていました。 ラジウムの存在を完全に証明するために、”実際に手に取れる形”で取り出すことに挑み始めたのです。 理諭だけでは、まだ不十分だ。目に見える形で、決定的な証拠で万人を納得させる必要がある──これがマリーの固い決意でした。 理論や説明で納得してくれる人もいるかもしれない。しかし、そうでない人もいます。そうした人に対しては、反論の余地のない、明確な実証を示していく。目に見える結果があってこそ、その正しさを完全に立証できるのです。 ピエールとマリーは、懸命に働きました。当時のノートには、マリーの筆跡と、ピエールの筆跡が、交互に記されています。まさしく、夫婦一体の協同作業でした。 ③に続く Tweet