投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年10月13日(木)18時33分25秒   通報
【平成の日精問題】
【ポイント】
民衆救済を忘れた宗教は権威化する。過去の宗教的指導者と、自らを同等であるとする絶対論を唱える輩が登場したならば、その教団は危険フラグが立っている。

過ちや批判を封ずるために絶対論が唱えられるのは、ドグマ化した宗教である。
会長絶対論は教団の危機としるべし。
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【池田大作全集84巻より、沖縄・九州合同協議会での語らい (1994年2月21日)②】

宗門で、文献上、最初に法主絶対論が主張されているのは、十二世日鎮上人を後見した、左京阿闍梨日教の書だとされる。

日鎮上人が、法を継いだのは十四歳の時である。
(「稚児貫首」と呼ばれる年少の法主には、ほかに、十三世日院上人が十歳で貫首になっている例などがある。〈『富士年表』による。年齢は数え年>)

当時、そのような風潮が一般にもあったとも言われるが、わずか十四歳である。日鎮上人に対して、若年のため、あるいは法義の理解のうえなどで、周囲の不安があったことは、当然、考えられる。

その日鎮上人を支えたのが、日教であった。日教の法主絶対論によって、日鎮上人は権威づけられ、宗内からの批判も封じられたと推測されている。

(日教は、時の法主は大聖人と変わりがないとして、法主を絶対化しているが、その根拠は何も示していない。「当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して」〈「類聚翰集私」富要二巻〉

──今の時代の法主の所に本尊の体があるのである。この法主にお会いすることは〈日蓮〉聖人が生まれ代わって世に出られたので、生身の聖人にお会いし縁を結んで──等と述べている)

十九世日舜(にっしゅん)上人の時にも、法主絶対論が唱えられている。
日舜上人の伝記(「続家中抄」の日舜伝)には、こう記されている。

「日精(にっせい)師(大石寺十七世)が、ある大檀那(敬台院)と仲違いして大石寺を退去し、江戸の常在寺へ移ってしまった。これによって、大石寺は住職不在になり、(三年後に)廃されかける危機になった」

「その後、この大檀那と仲直りをした日精師が登山したので、日舜師が相承を受けて、(大石寺の十九世として)法を継いだ」(趣意、「宗史部」富要五巻)と。

(日舜伝の記述と『富士年表』を照合すると、寛永十五年(一六三八年)から大石寺は「法主」がいなかったようである。また、日舜上人は、法主(住職)として大石寺に入ってから約四年間、「血脈相承」を受けていなかったことになる。〈十八世はすでに存命でなかった〉)

こうした異常な経過によって法主になった日舜上人に対して、上人が若かったせいもあり、批判が集まることが予想されたのだろうか。日舜上人を大檀那に対して推薦し、法主に就かせた日感(にちかん)は、主な檀徒に、こんな書状を送っている。

「どのような僧が貫主になったとしても、相承を伝受した上は、生身の釈迦仏・日蓮であるとすることが、開山(日興上人)の御本意であり、門徒の肝要である」(「日舜伝」に引用された「日感より檀那頭への書状」の要旨)と。

どのような者でも、相承を受けさえすれば「生身の大聖人」であるというのである。

このように法主の絶対的な権威を強調すれば、信徒の批判は封じられ、無条件で従属させられることになろう。ここに、今も変わらぬ「法主絶対論」の目的がある。このカラクリを絶対に見逃してはならない。

(続く)

平成の日精問題、池田先生のスピーチから宗門の堕落と権威化を学ぶ ①
http://6027.teacup.com/situation/bbs/57781
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【須田晴夫のホームページ】
「宮田論文への疑問――日蓮本仏論についての一考察」(論文のダウンロード可能)
http://www4.hp-ez.com/hp/haruosuda/page2

宮田氏の日本宗教学会での「釈迦本仏主義」への傾斜論理はこちらで確認できます。
https://www.youtube.com/watch?v=nInVBJ18F_

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■■【宮田は平成の日精について①】■■
平成の日精??投稿者:正義の走者

■■【宮田は平成の日精について②】■■大仏のグリグリのとこ
http://6027.teacup.com/situation/bbs/57734