投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年 6月10日(金)19時32分15秒   通報
【池田大作全集74巻】
創立六十周年祝賀の青年部記念幹部会 (1990年4月20日)より~(3/4)

■弘教のなかで個性磨いた十大弟子

次に私は、諸君に「何らかの道で″第一″の人をめざせ」と申し上げたい。

″広布の人材″は″広布の武器″を持たなくてはならない。自己を鍛え、何らかの分野で「第一人者」といわれるような実力を研ぎすませていくことである。あえていえば、そうした力ある「一人」の存在こそ、広布発展への″武器″となる。

よく知られているように、釈尊には「十大弟子」がいた。彼らは、師・釈尊のもと、修行で培った個性と、類まれなる資質を弘法の″武器″として、正法流布のために捨て身で戦ったのである。
十大弟子とは――

(1)舎利弗。智慧第一といわれた。
外道の弟子であったが、目連とともに釈尊に帰依した。釈尊の代わりに説法ができるほどの優れた弟子であったが、釈尊よりも早く亡くなっている。

(2)迦葉。頭陀第一。
彼は地味で人気はない。しかし、頭陀(厳格な戒律の修行)に優れ、重厚な人格者であったと想像される。この地味な人が、釈尊入滅後の教団維持の要となる。

(3)阿難。多聞第一。
釈尊に常随給仕した弟子で、仏の説法をもっとも多く聞いていた。温和で優しい好青年であり、女性の出家の希望を釈尊に取り次いだ。

(4)須菩提。解空第一。
よく空を悟ったことから、この名で呼ばれる。穏やかな気性で、だれとでも仲がよく、いわば″人格円満″なタイプであったようだ。

(5)富楼那。説法第一。
後にもくわしく述べるが、雄弁の人であった。

(6)目連。神通第一。
神通には、一つには
神足(じんそく)通の意味もあり、十方に往来できる能力をさす。コンビの舎利弗が″思考派″であったのに対し、彼はいわば直観力とパッション(情熱)に富んだ″行動派″であった。

(7)迦旃延(かせんねん)。論議第一。
緻密な″理論派″で、他宗教との論争、釈尊の教えの解説などで活躍した。

(8)阿那律。天眼第一。
釈尊の説法中に居眠りをし、釈尊に叱責される。反省した彼は以後、眠らない修行を続け、無理が高じて盲目になった。肉体の眼を失ったが、人よりはるかに深い洞察力や判断力をそなえた天眼を得た。

(9)優波離。持律第一。
当時のインドの下層階級の出身で、特別な力量はなかったが、釈尊の教えを篤実に持ち守った。いわば″庶民派″の代表である。

(10)羅睺羅(らごら)。密行第一。
密行とは、綿密な修行、正確な修行の意である。彼は釈尊の出家前の実の子どもで、十五歳で修行を始める。釈尊の子ということで苦労もするが、その分、こまかな点まで気がつき、だれもが認めざるをえない存在となった。

十人についてはさまざまな経典があるが、それらを総合すると、ほぼこうした人間像が浮かんでくる。このように釈尊は、まったく違った十人の弟子の″個性″を見事に開花させていった。

青年・釈尊を中心に出発した新興の「仏教教団」――。組織も、建物も、信用も、何一つ、まともなものはない。あるのは釈尊との″師弟の絆″だけであった。これが仏教の原点の、現実の姿であった。

こうしたなか、釈尊の心をうけて、弟子たちは弘教に励んだ。

釈尊は入門させるやいなや、すぐに弘教を命じた。

「一人で行って、法を説いて来なさい」――。ただちに「遊歴教化せよ」と。

弘教には、一切の修行が含まれている。これ以上の人間修行はない。ゆえに、この根本の実践を忘れては、人間の錬磨はない。「人間」が成長しなければ、組織の力のみに頼るようになる。そこから、さまざまな組織悪が生まれる。

徹底した弘教の実践こそ、仏法の生命である。それが釈尊の教えであり、なかんずく御本仏日蓮大聖人が、身命を賭して門下に示された成仏への直道なのである。

十大弟子は、初めから「自分はこれだけをやればよい」と考えていたのではない。全身全霊で仏道修行に励み、教団の建設に苦労するなかで、おのずから個性が磨かれ、それぞれの″得意技″″武器″が定まっていったと考えられる。

その実践は、五体にきざまれた師の教えを、どう″表現″するかという苦闘の連続であった。師の教えに応えようとする弟子たちにとって、一瞬一瞬が真剣勝負であり、一歩も退けない法戦であったにちがいない。

また師の側からみれば、弟子たちを行動させることによって、その可能性、適性というものも、すべてわかる。外見だけでは、なかなか判断できない。

自己を鍛えに鍛えぬいて、はじめて自体顕照がある。生命の奥底から″個性のダイヤモンド″が輝きを放っていく。こうした″人間性の開花″は、政治や経済の次元では決して得ることはできない。また、教育にも限界がある。生命そのものを錬磨しゆく信心修行の深い意義が、ここにある。

ともあれ、現代は釈尊の時代とは比較にならないほど、複雑な社会である。広宣流布の伸展も立体的、多元的になっており、「十人」程度の人材ではとうてい足りるはずもない。世界広布のためには、何万、何十万の人材が必要なのである。

青年部の諸君は、根本の仏道修行をとおして、個性を磨き、何らかのもので「第一」とたたえられるようなリーダーに成長していただきたい。「唱題第一」でも、「弘教第一」でも「教学第一」でもよい。また、信心即生活のうえでも、それぞれ、社会にあって、さまざまな「第一」を獲得してもらいたい。

ともかく″これだけはだれにも負けない″と言いきれるだけの偉大な結果を示していかれるよう、念願してやまない。(拍手)

■「弁舌第一」の富楼那の実践

十大弟子のなかで、「説法第一」とされるのは富楼那である。現在で言えば「雄弁第一」「弁舌第一」の力を持っていた。

こういう人材が今、必要である。いかなる場、いかなる相手に対しても、堂々と語り、明快に説き、歓喜し納得させていく実力、識見、人格。法を説く声が、全身からあふれ出てくるような豊かさ、生命力。そのためには勉強である。修行である。

どんな話にも拍手してくれる組織のあたたかさに安住して、″語る″ことは″戦い″であることを忘れてしまったなら、もはや向上はない。自身の敗北であるのみならず、広布の失速をもたらす。

「説法第一」は、十大弟子のなかでは、「論議第一」(迦旃延)と区別されている。ここには、それなりの意味があろう。

論議とは、どちらかと言えば、厳密な論理を組み立て、展開していく戦いである。これもきわめて重要である。これに対し、「説法」は、むしろ大衆の中で、現実にわかりやすく法を弘めていく力をさしていると考えられる。広宣流布の戦いでは、当然、どちらも欠かすことはできない。

富楼那の出身については諸説あり、断定できない。その一つに、豪商出身説がある。

それによると、彼はインドの海岸部の出身である。他の多くの弟子が、釈尊の教化活動の中心であつたインド中央部の出身であるのと異なっている。″地方″から優れた人材が出る例ともいえるかもしれない。

インドの西海岸、今のボンベイの北方に大きな貿易港があった。ボンベイには私も行ったことがある(一九六四年五月二十日~二十二日)。
釈尊の当時、インド洋、アラビア海を舞台に、西アジア、中東方面まで、海洋貿易は盛んであった。富楼那の父も、裕福な海商だったようだ。しかし父の死後、遺産は兄たちが全部取ってしまった。富楼那は一から始めねばならなかった。

彼は苦労を重ね、やがて商売で大成功する。今でいえば″貿易会社の社長さん″(笑い)であろうか。その名声は舎衛国の商人をも引きつけるほどになった。

舎衛国は「舎衛の三億」(釈尊が二十五年間、教化した同国で、三分の一の人は現に仏を見、三分の一は存在を聞いただけ、残りは見もせず聞きもしなかったと『大智度論』に説く)といわれるように、仏法がもっとも広まっていた都市である。

富楼那社長の(笑い)船に乗ってきた舎衛国の商人たちも仏教徒であった。
航海中、彼らは毎日、朝夕、一緒に何かを唱えていた。富楼那は聞いた。

「それは何の歌ですか」
「歌ではありません。これは仏の教えられた言葉です」

――要するに当時の勤行か、祈りをしていたのであろう。

ここから、彼は仏教に関心を持った。何か、心にふれるものがあったのだろう。

勤行を耳にしたことがきっかけで、仏法に心を寄せる。諸君も、そのような、すがすがしい勤行をしていただきたい。また、その商人らの態度も立派であり、印象的だったのではないだろうか。
信仰で磨かれた生命の光は、それ自体、正義の雄弁な証明者でもある。

富楼那は航海が終わると、さっそく舎衛国に向かった。彼は決断が速く、行動力があった。決めたことは迷わずに実行する。そうした精力的な、スケールの大きい人物像が浮かんでくる。

こうして彼は、陸路はるばる釈尊をたずね、会うことができた。話を聞いて、ただちに弟子となった。巨万の富をも投げ捨てた。彼は利益を追い求めるだけの″金の亡者″ではなかった。

″この人生で、自分は何をなすべきか″″真実に満足できる人生とは何か″――彼の胸中には、そうした疑問と求道の渇きがあったのかもしれない。

富豪など、何の苦悩もなさそうに見える人でも、内実は決してそうではない。人にはわからない悩み、また、むなしさに苦しんでいる場合も少なくない。

仏弟子となった富楼那は、真剣に弘教を始めた。そのなかで、これまでの経験がすべて生きてきた。彼は若い時から、実社会でもまれ、苦労していた。商売をとおして、人心の機微も心得ていた。