投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年 6月 8日(水)11時10分38秒   通報 編集済
宿坊の掲示板に青年部世代が増えてきました。
そこで4半世紀前のものですが池田先生のスピーチを全4回に分けて紹介します。対話の重要性など、昨今の学会状況を鑑みてのことです。(次回は本日午後の予定)
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【池田大作全集74巻】
創立六十周年祝賀の青年部記念幹部会 (1990年4月20日)より~(1/4)

■これからは諸君の時代、堂々たる先駆の前進を

めざす二十一世紀は近い。いよいよ、青年部の諸君が広布の前面に立ち、みずからの手で本格的な成長と拡大の歴史を築く時である。
恩師戸田先生はかつて、次の和歌を詠まれた。

旗もちて
先がけせよと
教えしを
事ある秋に
夢な忘れそ

″広宣流布の先駆の使命を絶対に忘れてはならない″との恩師の思いは、これまで一時たりとも私の心から離れたことはない。青年時代から今日まで、弟子としてひとたび誓ったことは、必ず実現し、すべてに先駆を切ってきたつもりである。

これからは諸君の時代である。今夜は全国で二十万人の若きリーダーが集った。この記念幹部会を出発として、堂々たる先駆の前進を期待してやまない。(拍手)

また先ほど、見事な演奏と独唱を披露してくださった女子部のピアノ部長、バイオリン部長、声楽部長の皆さま、本当にありがとう(拍手)。一つの道を志す人間として、″真剣勝負″の思いで唱題に励み、練習を重ねてこられた努力の結晶が、本日の演奏に光っている。″魂″の輝きがある。

また青年部の記念の集いにさいして、ピアノ部長らの代表の皆さまにすばらしい演奏をお願いしたいと思う。(拍手)

■「対話」のなかにこそ広布の脈動

日蓮大聖人が、早くから門下であった富木常忍に与えられた御抄は数多い。そのなかで、現在まで残っているうちもっとも古いとされるお手紙には、次のように仰せである。

「よるまゐり候はんと存候。ゆうさりとりのときばかりに給ふべく候。又御はたり候て法門をも御だんぎあるべく候」(『昭和新定日蓮大聖人御書』)
――富木常忍のところへ夜にうかがいたいと思います。迎えに来てくださる方は夕方の酉の刻(ほぼ午後五時から七時)ぐらいに、お願いしたいと思います。また、あなたも、こちら(大聖人の所)においでくださって、法門を御談義いたしましょう――と。

このお手紙は、建長五年(一二五三年)すなわち立教開宗の年の十二月にしたためられたと推測される。この年、大聖人は御年三十二歳であられた。建長六年ごろの帰依といわれる富木常忍が、この時すでに大聖人の門下となっていたかどうかは明らかではない。

しかし、御文の内容から拝されるように、大聖人は、御自ら相手の所へ足を運ばれ、また相手をご自身の所へ招かれながら、法門の談義、対話を呼びかけておられる。この、労をいとわぬ大慈大悲の御振る舞いこそ、末法万年にわたる広宣流布の活動の″源″ともなるものであり、私どもの進める対話運動の″原点″として深く拝してまいりたい。

また、訪問の時間などについても、具体的にしておられる。富木常忍の所では、何人かが法門を聞くために寄り集まったのであろうか。現在、私どもが座談会等に集いあっている時間帯とも重なるかもしれない。

いずれにせよ、広布の現場とは、″一人の人″のために足を運び、膝と膝をつきあわせての真摯な対話を行うなかにあることを忘れてはならない。

人を会合に集め、上からの″伝達″や″押し付け″でこと足れりとするのは、錯覚である。

諸君はそうした権威や形式の幹部になってはならない。あくまでも大聖人の門下として、御本仏の御振る舞いを″鑑″と拝しながらの日々の実践でありたい。

戸田先生は、折伏を実践する意義と、その功徳について「凡夫が大聖人のお使いとなるのであるから、吾人(われわれ)は凡夫だが、その生命には大聖人の生命が脈々とうってきて、いいしれない偉大な生命力が涌出する」と言われていた。

弘教を行ずる人には、無限の力と情熱と知恵がわかないはずがないのである。これ以上の歓喜はない。

ところで、「対話」を重視した哲学者の一人にアメリカのデューイ(一八五九年~一九五二年)がいる。彼の哲学を「話し合いの哲学」という人もおり、アメリカの「プラグマティズム」を代表する哲学者であった。

■対話を重視したデューイの哲学

「プラグマ」とは行動・実務を意味するギリシャ語を語源とする。つまり、プラグマティズムは「行動の哲学」また「生活の哲学」「経験の哲学」等の意義をもっている。

彼は約半世紀にわたってアメリカの哲学・教育をリードしてきた人物である。初代会長の牧口先生は『創価教育学体系』で、このデューイの教育哲学にも注目されていた。

また恩師戸田先生もよく述懐されていた。″太平洋戦争において、アメリカはデューイの哲学を基礎とし、日本は国家神道をよりどころとしていた。勝負は物量だけの問題ではなく、すでにこのことによって戦う前に決まっていた″と。

ちなみに牧口先生の著『創価教育学体系』が英訳され、昨年、アメリカのアイオワ州立大学から出版されたが、アメリカの教育界に大きな反響を広げている。(=一九九六年七月現在、英語版に加えて、ポルトガル語版、ベトナム語版、フランス語版が発刊されている)

私たちは、本当にすばらしい初代会長を持ったことに誇りをおぼえる。

ハーバード大学の教育哲学研究所長のバーノン・ハワード博士は同書を読んで、″牧口先生の教育学説の根底には、経験とヒューマニズムに根ざした知恵が脈打つ″と深い共感を寄せていた。そのなかで、同所長は、牧口先生が戦前の一九二〇年代の日本で、すでにアメリカのデューイの哲学・人物に注目していた先見性を、高く評価している。

デューイは″デモクラシー(民主主義)は「対話」から始まる″と述べている。そして″デモクラシーはたんなる政治の形態ではない。自由で豊かな「対話」に満ちた生活のあり方である″と主張した。

命令や強制や独善ではない。「対話」こそ民主主義の根幹をなすものである。「対話」「座談会」を活動の基本としてきた学会の先見性が、ここにもある。

デューイは、その「対話」のなかでも、地域に根ざした話し言葉による知性の交流を重視していた。これは、このほど発足した青年部の大学校のめざしているものの一つといえよう。

彼はまた
「伝達もされず、共有もされず、表現において再生もされない思想は独白にすぎない。そして、独白は半端で不完全な思考にすぎない」(『現代政治の基礎――公衆とその諸問題』阿部斎訳、みすず書房)と、社会に波動をおよぼさない思想の偏頗さ、無力さを喝破した。
(続く)