投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年 5月20日(金)08時35分20秒   通報
池田大作全集75巻より
第三回男子青年部幹部会・創価班、牙城会総会 (1990年12月9日)

■権力者の本質は臆病

先日(十月二十四日)、私は京都で、世界最高峰の平和学者ヨハン・ガルトゥング博士と会談した。席上、博士は東欧の劇的な革命に触れた際、東ドイツ秘密警察の記録文書を研究した結果をこう言われていた。

「東側の指導者たちが、いちばん恐れていたのは、西側諸国など他国の指導者ではありませんでした。むしろ自国の少数の平和主義者たちを恐れていたのです。非暴力の運動家たち、『信念』のためにはみずからを投げ出す覚悟のある人々、そうしたグループをもっとも恐れていました。それは彼ら権力者たちでさえ、心の中では、こうした平和主義者のほうが正しいと知っていたからです」と。
抑圧的な権力者――彼らの本質は、じつは「臆病」なのである。臆病だからこそ、みずからを守る″威厳のよろい″として、権威を求める。また人々に尊敬され、忠誠を誓わせないと安心ができない。

だからこそ、なおさら彼らは、権威もいらぬ、名誉も財産も何もいらぬ、命さえいらぬという「信念の人」が恐ろしい。自分の権威を認めない者がいることが気になってしかたがないのである。

そして、みずからの「臆病」と「不安」を人々に悟られることを、また強く恐れている――。
臆病な人間は、残酷である。勇気の人は寛厚(寛大で温厚)である。

かつての悪侶らの残酷さ、ヒステリックな言動。それらも知性の弱さとともに、内心の臆病と、正しい者への恐れの現れといえまいか。
ヨーロッパのことわざに「臆病な犬ほど、よく吠える」と。また「深き河は静かに流れる」と。
恐れているから、弾圧する。不安だから、ことさらに権威的になる。自信と確信がないから、その分、自分を大きく見せようと虚勢を張る。これが「修羅」の特徴である。勝他の念――ともかく自分が一番と思えないと気がすまない生命である。
ゆえに、悪に対しては、また障魔に対しては、こちらがそのもろさを見破って強く出ることである。そうすれば彼らは後退し、退散する。
「佐渡御書」のあまりにも有名な一節、
「修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し」
――巨大な姿を見せ、おごっていた阿修羅王は、帝釈天に責められると、無熱池(閻浮提の四大河の水源とされた清涼な池)にある一つの蓮の実の穴の中に、小さくなって隠れてしまった――。

このように、おごれる者は、強敵にあうと、必ず恐れる心が出てくると、大聖人が教えてくださっているとおりである。
「修羅の人」が、自分を大きいと錯覚しているのは、権威やうぬばれの風船をふくらませ、その風船の中に隠れて、自分も大きくなったように勘違いしているのである。

風船を突いて破れば、みすぼらしい小身が現れる。代議士は、落選すれば代議士ではない。権威もなくなってしまう。立場に生きる人が立場を失い、名声に生きる人が名声を失った時――それはあまりにもみじめである。
もう一つ、諸君に覚えておいていただきたいのは、「大慢のものは敵に随う」――大慢心の者は、いざという時に敵に従う――との仰せである。

これまでも悪侶や反逆者は、本来、自分たちと主義主張の反する勢力とも手を結び、野合して、正法を迫害してきた。それまでの敵とも、簡単に″同志″になってしまった(笑い)。また、いよいよ追いつめられると、これまで罵ってきた相手にも頭を下げて、保身を図るのが、大慢の人の行動パターンである。

これに対し、大聖人は、しばしば世間から「慢心だ」「傲慢だ」と非難をされておられる。ありのままの″真実″を語られるのだから、保守的な人々にそう見えるのも、ある意味で仕方なかった面があるかもしれない。
しかし言うまでもなく、それは「正法を惜む心」が強盛なためであり、慢とは正反対の、正法への大確信と大慈悲であられた。

「顕仏未来記」には「我が言は大慢に似たれども仏記を扶(たす)け如来の実語を顕さんが為なり」――わが言葉は大慢心のように見えるかもしれないが、仏の予言を助け、如来の真実を証明するためである――と。

類似の御文は御書に数多い。
ともあれ、信仰とは、何ものも恐れぬことである。庶民が、民衆が、不敵なまでの強さで立ち上がる時、時代は変わる。
迫害しているほうではなく、されているほうが正しいのだ――という″真実を見る眼″を人々が揺るぎなくもつ時、いかなる悪しき権威にも左右されない″民主の世界″の礎ができる。諸君こそ、その新世界の建設者なのである。(拍手)