2014年9月12日 【第四回北海道総会、県・区代表幹部会 平成三年八月十八日(大作全集七十八巻)】 投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月12日(金)18時20分39秒 返信・引用 日蓮大聖人は、諸天の一つである八幡大菩薩を、繰り返し強く諫暁(諌め暁すこと、過ちを指摘して非をただすこと)なされている。 「法華経の行者をなぜ守らないのか」、また「法華経の行者に敵対する悪人を、なぜ懲らしめないのか」と、大聖人は烈々と責めただされた。 ところが、その大聖人のお振る舞いについて、《八幡大菩薩のような高貴な存在に対して、言いすぎではないか。強引すぎるのではないか》という疑問をいだく門下もいた。 八幡大菩薩は、奈良、平安期をとおしてすでに日本中で広く信仰を集めており、当時はとくに武士の守護神として尊崇されていた。 それに対して、大聖人は、御内証は末法の御本仏であられたが、外用(外面の姿)が凡夫僧のお姿であられたために、信心の浅い門下の目には、大聖人より八幡のほうが位が高く見えたのであろう。 そうした疑問に対し、大聖人は、有名な「諫暁八幡抄」の中で、次のように明快に答えておられる。 「我が弟子等の内・謗法の余慶有る者の思いていわく此の御房は八幡をかたきとすと云云、これいまだ道理有りて法の成就せぬには本尊をもせむるという事を存知せざる者の思いなり」(御書五八四頁) ――わが弟子等のなかで、謗法が残っている者が考えて言うのに「この御房(大聖人)は八幡大菩薩を敵にしている」と。こうした非難は、「道理にかなっているにもかかわらず、祈りが成就しない場合には本尊を責める」ということを、いまだ知らない者が考えることである――と。 信心の極理がこめられた甚深のお言葉と拝される。 とともに、たとえば会社でまじめに働いて給料が貰えなければ、社長を責めるのは当たり前であるように、この御文の仰せも《道理》として納得される。 ともあれ、「正しき道理」にかなった「正しき信仰」には、何も恐れるものはない。 根本の御書にのっとった「正しき信心」を行ずる人が最も正しく、最も強い存在であることを確信していただきたい。 ゆえに、大聖人の仏子は、いかなる権威や権力に対しても、脅されたり、屈伏させられたり、跪かねばならない理由はない。仏法から見れば、そのような権威は《幻》にすぎない。 相手が何であれ、だれ人であれ、本来、仏子を守るべき使命がありながら守らない、また仏法を破る悪人がありながら戒めようとしない場合には、その非を堂々と言いきっていけばよい。 いわんや、仏子を守るどころか苦しめる者、悪人を戒めるどころか、悪人と結託して巧妙に善知識の集いを破ろうとする輩に対しては、断固、戦いぬいていかねばならない。 「悪」を責めなければ、自身も「悪」となってしまう。「悪」と戦い、勝ってこそ「善」は証明される。その「正義の人」は大福運を積み、成仏への道を大きく開きゆくことは間違いない。 「法の成就せぬには本尊をせむる」との仰せには、宗教の「本尊」はどこまでも「人間」のため、「人間」を幸福にするためにあるとの根本の意義が拝される。 「本尊」のための本尊ではなく、まして僧侶や寺院のための本尊でもない、と。 大聖人の門下においても、かりにも、御本尊を仏子を脅かす《道具》にしたり、金儲けの《手段》にするような行為があれば、それは大聖人の仏法を破壊する「大悪」であると、私どもは断ずる。 仏法は、徹頭徹尾、「人間主義」である。 どこまでいっても「人間の幸福」「民衆の幸福」が根本である。 私どもは、この《民衆の仏法》の大道を永遠に誇り高く進んでまいりたい。 【第四回北海道総会、県・区代表幹部会 平成三年八月十八日(大作全集七十八巻)】 Tweet