2016年9月2日 投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 9月 2日(金)07時12分50秒 通報 螺髪 さん、もう忘れた頃かと思いますが、私なりの大聖人の仏法の生命論を先に書きましたのでとりあえずそれを 先に送ります。 書いているうちに新しい発見もあったりして、とても有意義でした。 改めて、勉強させていただきました。 螺髪 さんの考察がとても深くどこから手をつけたらいいかなと思ってしばらく考えていましたが、 とりあえず、私にとっては、自分の頭の整理をする意味でも、まず私の大聖人の仏法に対する考察を書いて、 その視点から意見などを書いた方が書きやすいと思ったので、拙い考察で、かなり文面が長くなりましたが、 読んでみて下さい。 いつもの事ですが、この考察は、私の私見によるものですので、間違っていると思われる方は遠慮なくご指摘の程、 よろしくお願いします。 週末はちょっと忙しくなりますので、螺髪さんの投稿へのコメントは来週明けに書きますね。 では、まず螺髪 さんのこの言葉から入ります。 1.>生命は、清浄にもなり得るし、汚濁にもなり得る、< 生命は、「濁り」に傷付けられてしまうものです。本来、生命が「清浄」である証拠です。だからといって、仏法が 「性善説」とするのは誤りです。 生命は、清浄にもなり得るし、汚濁にもなり得る、本来、「無垢」の清浄のものと見るべきなのでしょう。 だから「善」にも、「悪」にも成り得ます。< 世の中にはいろいろな宗教や思想があります。 そして、信じるものが違う事によって宗教がそれぞれに分かれている訳ですが、最も大切なその違いのひとつが、 生命というものに対する解釈です。 誰が生命を創ったのか、人生の意味は何なのか、そしてそれは誰かに操られているのか、人生に起こる全ての事は偶然なのか、 私達は基本的に善なのか悪なのか、もし善なら悪はどこからくるのか、もし悪なら善はどこからくるのか、死んだあとは どうなるのか、煩悩についての受け取り方、生命の平等性や永遠性、はては生命と環境との関係性など どの宗教も幸福を目指しているとはいえ、その幸福を追求している主体である自分の生命自体に関する解釈が間違っていれば、 それを根拠にした問題解決法も、間違ったものになります。 病の起りを知らざる人の病を治せば弥(いよい)よ病は倍増すべし 種種御振舞御書P921 とある通りです。 大聖人は、その思想や宗教の教えが、これらの事をどう説いているかによって五重の相対という宗教の比較の原理を立て、 宗教の「教」の高低浅深を説いています。 そして、私達が自分の力で幸福な人生が築ける様に、最高峰の教えとその具体的な修行方法を私達に残してくださいました。 Tweet