投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 8月21日(日)06時44分14秒   通報
<円融の三諦>

円融とは理性法界の処に本より已来三諦の理有り互に円融して九箇と成る、得意とは不思議と円融との三観は
凡心の及ぶ所に非ず但だ聖智の自受用の徳を以て量知すべき故に得意と名く、
十八円満抄 p1365

講義
>円融とは理性法界の処に本より已来三諦の理有り互に円融して九箇と成る<
「円融の一心三観」の説明である。
法華玄義巻二上の文に「如に約して空を明かさば一空一切空なり、如を点じて相を明かさば一仮一切仮、
是に就いて中を論ずれば一中一切中なり」とあったとの関係している。
これは、一切諸法に空仮中の三諦を具することを明らかにした文であるが、先の不思議の一心三観に比べて、
空仮中の三諦が具すと肯定的に把握しているところである。
本来、実相の究極は三諦としてとらえきれない言語道断・心行所滅の「不思議」の当体であり、それを「妙」という
のであるが、「法」とは、三諦として把握されている面をあらわしているのである。
「理性法界の処」とは、理性の法界としてあらわれているところの意で、そこに三諦の理があり、この三諦おのおのが
三諦を具え、九箇となっている。
引用以上

分かりやすく言えば、まず、誰でもご存知のように、それぞれの十界の境涯に、更に十界の生命を互具している、
つまり、一瞬の生命に一つの生命境涯を表している時でも、他の全ての生命境涯を可能性として全て内包している
という十界互具の原理があります。
それと同じ様に、三諦互具とでも言う様に、三諦のどの側面をとってもその一つの側面に全ての三諦が内包しているのが
「円融の三諦」だということだと思います。つまり、中諦の内に空仮中の三諦が互具しており、空諦の内にも空仮中の
三諦が、そして、仮諦にも又、空仮中の三諦が具足しているということでありましょう。
以前にも話が出ていましたが「個即全体」「全体即個」の原理です。

日寛上人の説明が法華経の智慧にこうあります。

以下抜粋

遠藤;もはや、大きいとか小さいとかの次元では、とらえられません。日寛上人は一念三千について、「微小な一念に、
どうして三千という広大な次元を具しているといえるのか」
という問いを設け、法華経は「具遍」を明かしているのだと答えられています。(三重秘伝抄)
「具」は「そなわる」こと。「遍」は「ゆきわたる」です。「法界の全体は一念に具し一念の全体は法界に遍し」と。
極大が極小に具わり、極小が極大に広がっていきます。
「それは例えば、一粒の土に、その周りの広大な国土の成分が全て具わっており、一滴の水を大海に加えると、
それが大海中に広くゆきわたるようなものだ。」とも仰せになっています。 
抜粋以上