投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 8月15日(月)08時46分16秒   通報
真・桃太郎様
ご質問の件、私の見解を書きました。
全部の回答に少々時間がかかるのを、ご了承下さい。

>正宗からの完全独立を図るため、学会教義の独自性を確立する意図もあります

>そうでしょうね。今回の改正はそんな感じがします。
今の教義のままでは、いつまでたっても正宗から、偽本尊とか「開眼」わけのわからんイチャモン付けられるんで、
とても良い改正だと思っています。<

この件について
まず、「学会は、教義(ご本尊の意義も含む)独自性を本当に立てる必要があるのか、又、独自性を立てる事が正当な行為か」
というところから、始めたいと思います。

前にも書いたかと思いますが、教団が宗教活動をするのに「化法」と「化義」の部分があります。

「化義」というのは、まず其の「化法」である教義が確立していて、それに準じて、その教義をどの様に広めていくかなどの
方法を規定するものだと理解しています。

そして、「化法」である教えー これを日興門流で一言で言えば、大聖人の仏法の極理である、事(現実に形としてあらわされたもの)
の一念三千の人法一箇の御本尊と、その御本尊の原型となっている理(理論)の一念三千です。

この教えを、私達は例えば「宇宙の法則」とか「正しい生命哲学」と呼んできたのではなかったのですか。
もしこの教えが、本当に「宇宙の法則」であり、「正しい生命哲学」だとしたらこの教えは一体宇宙の中で誰に所属するもの
なんでしょうか。
答えは、全ての生命に所属しているのであって、特定の人や教団に所属しているはずはありません。
正宗の所有物ではないはずです。
確かに、正宗が長年大聖人の教義を護持してきた事は感謝しなければいけないでしょうが、しかし、どうしても「化義」の部分で
同調できない部分があって どうしても袂を分かつしか道がない場合、だからと言ってどうして信心の根幹を変える理由があるのかと思うのです。
当然、教義の事でも細かい部分で不明な点は真摯な態度で再度討議し、又みんなの智慧を結集したりするのもありかもしれません。
余談ですが、キリスト教でも、分派ができた初期の段階ではカソリックの権威でバイブルを使わせない様な動きがあった様ですが、
そんな事が長くは続くはずはなく、今では、ジーザスを慕う人達がバイブルを使うのを、だれも止める人はいません。

結論として私が言いたいのは「真理を変えてまで独自性を出す必要はない」、又、違う言い方をすれば、
「独自性を立てる為に真理を変えるのは間違っている」という事です。
それを疑いもなくやろうとするのは、元々、執行部の人達はこの教義を「たいしたことはない」と思っているという証拠だと思います。
まずは教を判別する五重の相対を学び、布教の判別である宗教の五綱を学び、そしてもちろん一念三千の法理を深く学び、
御本尊の意義を深く勉強し、そのうえで更にいろんな方々の意見もきくべきではないか、ということです。
正しい教えを捨てて、我見の教義を立てるほど、罪な事はありません。
深い謗法の罪を、自分も、そしてメンバーにもさせる事になるからです。