投稿者:庶民の怒り 投稿日:2016年 8月 4日(木)15時42分26秒   通報
とある知的障碍者福祉施設に勤務していた時の話。施設に入所している50代の知的障碍のある女性がご本尊を破ってしまった。私が「偶然に」学会員だということで施設の職員(外部)から相談を受け、苦心して紹介者を探し当て、ご本尊のお取替えをしたことがある。紹介者を探すにあたって、私の所属する地元組織の中心幹部にも相談したが、「いったい何を面倒なことをやっているのだ」と冷ややかな言葉を浴びせかけられたのが忘れられない。
数に追われて、無理やりな折伏を迫られることによって、判断力の弱い、お年寄りや障碍者を入会させてしまう。それはそれで、組織をあげて手厚く面倒を見れば良いのかもしれないが、すぐに次の戦い。戦い。短期決戦。実質、面倒など見る暇もない。そして、このような問題が起きれば、紹介者が責められる。折伏して放置しっぱなしか、と。
こんなことが全国で数えきれないくらい起こっていのだろう。この件では、何と外部の人からの相談でことが発覚したのだ。一歩間違えば、「学会は何をやっているのだ」と信頼を失うことだろう。このような現状の中で、新聞のゴリ押し、選挙のゴリ押しをされて、常識のある外部の人は、「いいかげんにしてくれ」と皆あきれかえっている。
中心幹部が本気で幹部の教育に取り組んでいるならば、こんな問題が起こるはずもない。
常識豊かな行動だの弱者の見方だの後輩を大切になど、実質、スローガンにすぎないのだろう。
上記の福祉施設では、学会員でない、職員の方が知的障碍のある人と生活を共にし、その生涯をかけて、面倒を見ている。学会員は、ご本尊だけ持たせて、それで終わり。公明党が何をするわけでもない。
もちろん学会員の中にも個々には、福祉の世界においても身を削るような働きをされている方々も数多くいらっしゃることだろう。身内の介護などを献身的にされている方も多くいらっしゃることだろう。
だが、学会全体としては、どうなのだろう。「一人を大切に」などといっているが、それがもし、成果につながらないことだと分かると途端に非難をされるのが学会組織の常では、ないのか。
上からの打ち出しの伝達と成果の数字の報告に明け暮れる活動。信心指導というが、他人の人生を左右しかねない重要なことなのに、カウンセリングの技法や心理学の知見に真剣に学ぼうとすらしない。学会指導だけ信じていればそれでよいと考え世間を一段低く見て、真剣に学ぼうとしない。
もちろんこれは、全体の傾向性を示しただけに過ぎない。個々の学会の方々すべてに当てはまることではない。
「先生や会長は、偉い人だ。だから何を差し置いても犠牲にしても、文句を言わずに守るんだ」これでは、宗門と何も変わらないではないか。いつまで立場の弱い庶民が搾取され、虐げられなければならないのか。