投稿者:赤胴鈴之助 投稿日:2016年 6月29日(水)02時27分46秒
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ほとけとほとけだけがしるしょほうじっそうじゅうにょぜをかんたんにせつめいすると、

はじめのさんにょぜそう・しょう・たいは、せいめいのじったいそのものをしめしており、
あとのななにょぜりき・さ・いん・えん・か・ほう・ほんまつくきょうとうは、
せいめいのじったいそう・しょう・たいがどのようなうんどうをするかをしめしたものといえます。

つまり「りき・さ」はせいめいの〝はつどうやひろがり〟をしめし
「いん・えん・・ほう」はせいめいの〝ながれ〟をするどくとらえているとかいしゃくすることもかのうです。

そして「ほんまつくきょうとう」はそのせいめいのほうそくをそうかつしている〝たえなるほう〟ともいえます。

ようするに、このじゅうにょぜというじっそうなくしてせいめいというものはなく、
せいめいのじったいそう・しょう・たいがめいかくでなければかんねんろんです。

ぶっぽうはじっそうにそくしたせいめいろんであり、にちれんぶっぽうはそのせいめいをかいめいして、
ばんにんがじょうぶつするほうとをもののみごとにときあかしただいせいめいてつがくなのです。

では、ほとけとほとけだけがしるしょほうじっそうじゅうにょぜをとおして、ぼうとうにあげた
なむみょうほうれんげきょうをせいかくにはつおんできないじゅうどしょうがいしゃはどうやってじょうぶつするのか、

こんどはそれをかんがえていきたいとおもいます。

おなじにんげんとしてうまれても、ひとにはさまざまなしんたいてきさべつがあります。

だいしょうにんは「にんげんにうまれる〝いん〟はわかったが、おなじようにごかいをもってにんげんにうまれながら、
どうしてめのみえないひと、みみのきこえないひと、くちのきけないひと、せのひくいひと、あしのふじゆうなひと、

せぼねがこうほうにもりあがり、きゅうじょうにわいきょくしたりするびょうきにかかるひと、
びんぼうなひと、たびょうのひとなどのさべつがあるのかしゅい」ごしょ〇ぺーじ

という〝とい〟をせっていし、それに〝こたえる〟かたちできょうもんろんしゃくをとおしてそのいんがをあかしました。

そしてたいよう、つぎのようにこたえています。

「りゅうじゅのかいただいちどろんにはこうある。

『もししゅじょうのまなこをやぶり、えぐったり、しょうほうをもってしんじつをみるまなこをひぼうしてやぶっても
つみにならないひとは、しんでじごくにおち、つみをおえてひととうまれてもうもくとなる。
またぶっとうのなかのかじゅおよびとうみょうをぬすむなどのぜんせのごういんによってじしんのまなこのこうみょうをうしなう』とある。

また、みみのきこえないひとのぜんせは、ししょうやちちのきょうくんをうけようとせず、きいてもじっせんしないで、
かえっておこりうらむ。このつみによってみみがきこえないひととなる。

また、ぜんせにたにんのしたをきり、あるいはそのくちをふさぎ、どくをあたえてくちをきけないようにしたり、
あるいはししょうのおしえ、ふぼのせっきょうをきいてとちゅうでさえぎる。

これはよにうまれてひととなるが、おしになってものをいうことができないしゅい」どうぺーじ~

とりゅうじゅのせつをしょうかいし、また

「ぜんせにたにんのざぜんをさまたげたり、ざぜんのどうじょうをやぶったり、じゅじゅつでひとをいのり、
おこらせたりあらそわせたりいんよくをおこさせたものは、こんぜにはたくさんのなやみがあり、

それはふかくあつく、ちょうどバラモンがたはたざいさんをうしない、
つまがしんでそくじにはっきょうし、らたいではしりだしたようなものである。

ぜんせでほとけ・あらかん・ひゃくしぶつのしょくもつやふぼしんぞくのしょくもつをうばったばあいは、
たとえほとけのざいせにうまれあうことができたとしても、うえやかわきのくるしみをうける、
それはつみがおもいためである。

ぜんせにこのんでムチやぼうでひとをうち、ごうもんし、
こうそくしたりしてしゅ々じゅになやませたために、こんせにびょうくとなるのである。

ぜんせにたにんのみをきずつけ、こうべをきり、てあしをきり、しゅ々じゅにしんたいをきずつけ、
あるいはぶつぞうをこわし、ぶつぞうのはなやけんじんしょうにんのぞうやふぼのしょうぞうをこわしたものは、

そのつみによってしょうがいのあるみとなるのである。
またあくほうをしゅぎょうしたむくいとして、みにくいしんたいにうまれるしゅい」ごしょ431ぺーじとあります。

さらに「ほけきょうひゆほんには

『もしひとがほけきょうをしんじないできぼうするならば、ひととうまれることがあっても、
がん・に・び・ぜつ・しんのごこんはかんぜんではなく、めのみえないひと、みみのきこえないひと、しょうがいのあるみとうまれるだろう。

くちのいきはつねにくさく、びんぼうでいやしいみとなってひとにつかわれ、たびょうでしんたいはやせほそり、たよるところもない。
ひとからそむかれ、きょうはくされ、ぬすまれるだろう・・・このようなつみのためにふりょのさいなんにあうであろうしゅい』とある。

またほけきょうかんぱつほんには

『ほけきょうをじゅじするものをみて、そのかこのあやまちをいいだすものは、たとえそれがじじつであっても、
じじつでなくても、そのひとはげんせでハンセンびょうをえるであろう。

もしこれをけいべつするものは、いつのよでもげっしはすいてかけ、みにくいくちびる、ひらたいはな、てあしはもつれてまがり、
めはすがめかたほうのめがふじゆう、どくがんとなり、しんたいはくさくきたなく、わるいできものにうみやちがたまり、
はらにはみずがたまり、たんきである、などのわるいじゅうびょうにかかるしゅい』とあるつうげ」どうぺーじ

ことをしょうかいしました。これがほとけのちけんしたせいめいのじっそうじゅうにょぜです。

しんじる、しんじないにかかわらず、これがぶっぽうのきびしきいんがです。ほとけはもろ々もろのせいめいのじっそうを
ありのままにみて、せいめいはじっかいをごぐしてえいえんにつづくものだととらえていました。

それはなまのせいめい、しのせいめいのくべつこそあれ
〝せいめいはうまれかわる〟というものではなく、へんかしつつもそのままつづくということです。

だいしょうにんはごっかんのち、さどで〝かいもくしょう〟をあらわし、そのなかできょうてんしんちかんきょうにある

「かこの〝いん〟をしらんとほっせば、そのげんざいの〝〟をみよ。
みらいの〝〟をしらんとほっせば、そのげんざいの〝いん〟をみよ」ごしょ231ぺーじのぶんをとおして、

はくがいのほんしつをかたり、どんなにふぐうなじんせいであっても、
みらいをこうふくなじんせいにかえるのは、いまげんざいの「いちねん」のなかにあることをおしえました。

だいじなのはこのげんじつのじんせいをどういきるかであり、
このじんせいをいきるせいめいそれじたいのもんだいをかいめいしきることだとおもいます。

それをばんにんにつたえるために、いけだせんせいはしょだい・にだいのいしをつぎ、
あらゆるしょうまのぼうはていとなって、がっかいいんをいくせいしてきたのだとかんがえます。

それをむしして

「がっかいからうちだされたたたかいはすべてしんじんでうけとめろ」
「こころのもちかたひとつでこうふくをかんじられるじぶんになる」

などという、いわゆる〝こころのもちかたろん〟てきなしそうやきょうくんは、アヘンまやくであり、じゃぎです。

にちれんぶっぽうはひとりのにんげんにおけるただしいじんせいのもくてきをおしえ、
ひと々びとをめざめさせて、ぜったいてきこうふくきょうがいへのみちをときあかしたせいめいてつがくであり、
それをせかいにつたえているのがいけだせんせいをちゅうしんとするそうかがっかいです。

それはまた、くのじんせいかららくのじんせいへのみちであり、きょうきのじんせいからしょうきのじんせいへのてんかんでもあるのです。