2016年7月8日 投稿者:螺髪 投稿日:2016年 7月 8日(金)20時05分51秒 通報 「生命の世紀」への考察 「行道不行道」<中> 餓鬼の「貪り」が充たされないことからくる「渇き」なのではないのでしょうか。汲めども汲めども、飽くところを知らない「渇き」からくるものが「餓鬼」ではないかということです。注ぎ込むものとは、例えば水です。 法華経の「八種の給仕」の「貪煩悩」に「汲水」が当てられているのは、この意味からとも考えられます。 「飢え」は「渇き」となって、「餓鬼」の法界を造ります。戦中、戦後がそうでした。 この「渇き」が起こっている時に、何を言っても通じません。池田先生が第三代会長に就任された時に、「地震が起きませんように」とともに、「豊作でありますように」と祈られたというのも、その由縁だったのでしょう。 「餓鬼」の「貪り」の充足は「渇き」の充足でしょうが、「喜び」とはいえ、まだ「天界」とはいえないのではないでしょうか。「渇き」のとりあえずの補充をなすだけです。補充が納まればば、すぐさま「渇き」が再発します。「貪り」とは、飽くなき「渇き」の繰り返しであるやにも知れません。「貪欲」だけの文明が、いつしか行き詰まりになることは多くの人が認識しています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ $$ 賢きを人と云いはかなきを畜といふ! ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 大聖人は「崇峻天皇御書」で、「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(崇峻天皇御書P1174)と仰せです。人と畜生の対応です。 人と畜生との違いは、「賢い」か、「癡(おろ)か」かの一点だということです。大聖人は同じ「崇峻天皇御書」で、不軽菩薩が人を敬ったことを挙げて、他者との人間関係に目覚め愚かさを克服したところに、「人の振る舞い」があるともされています。 「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」の「はかなき」というのは「墓無き」とも書きます。それは、帰着点がない、基(命)づくものがないこと意味します。出発点がなく、最終目的がないということでもあります。 またこんな仰せもあります。 「人道とは報恩経に云く『三帰五戒は人に生る』文」(十法界明因果抄P430)。 「三帰」とは「仏法僧」です。「仏」と「法」と「僧伽(そうぎゃ)」に帰すことを言います。「五戒」とは、不殺生、不邪淫、不飲酒、不偸盗、不妄語のことです。この五戒は儒教に対応すると、仁、義、礼、知、信と相対します。 つまりこれは、「人道」が「三帰五戒」を持つところから始まるということになるということを意味します。 法華経寿量品第十六に「放逸著五欲 堕於悪道中」(放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちる)とあります。 基督教で言えば「原罪」ということになるでしょうか。 蓄身を持つ人間は、放っておけば「五欲」のなすがままになる、悪道に堕ちる、だから、「五戒」が必要である、といえるのでしょう。 人を殺してはならない、放逸になってしまってもならない、邪(よこしま)な行動をしてはならない、煩悩に支配されてしまってはならない、信頼を損ねてはならない、というのが「五戒」です。蓄身の「自分」に負けてはならない、ということです。 「心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文ぞかし」(曾谷入道殿御返事P1025) と同じことです。 「ありのまま」や、「無作三身」といっても、本来、生命の発動性そのものの「法性」は、そのままでは発動することはありません。その法性にすでに「意味」の付いた「九界」や「五欲」が発動するだけです。「無作三身」とするためには、むしろ「戒」という規制が不可欠ということにならないでしょうか。 極楽寺からの出火で鎌倉御所まで消失してしまった両火坊(良観)を攻めた仰せがあります。 「名は持戒ときこゆれども実には放逸なるか」(下山御消息P350)。 「戒」の反対は「放逸」です。 だが「戒」といっても、法華経に至っては「受持即持戒」がその本義です。 「末代に於て四十余年の持戒無し、唯法華経を持つを持戒と為す」(守護国家論P47)。 「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(教行証御書P1282)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ $$ 慢心の奴隷となり、悪のとりこになってしまった! ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ またこんな仰せもあります。 「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり。儒家には三皇・五帝・三王・此等を天尊と号す諸臣の頭目・万民の橋梁なり、三皇已前は父をしらず人皆禽獣に同ず五帝已後は父母を弁て孝をいたす」(開目抄P186)。 「人界の条件」は、孝養から始まる、「徳」を学ぶところから始まるというのです。 「人界」について「法華経の智慧」ではこう仰せです。 「斎藤 そこで『人界』ですが、さきほど修羅が『勝他の念』であるのに対して、人界は『自分に勝つ』境涯であると言われ、パッと開ける思いがしました。 名誉会長 正確には『自分に勝つ』境涯の第一歩が『人界』です。その最高の段階が菩薩界であり仏界です。大聖人は仏典を引いて『三帰五戒は人に生る』(御書430)とされている。 三帰〈仏への帰依・法への帰依・僧伽(修行者の組織)への帰依〉も、五戒(不殺生戒、不邪淫戒、不飲酒戒、不偸盗戒、不妄語戒)も、正しい人生の『軌道』を歩んでいこうとする努力です。『軌道』を歩むことによって、自分の生命が安定してくる。『慢』の心のように、揺るがなくなるのです。 三帰は、広げて言えば信仰心です。修羅は、自分よりも優れたものは認めなかった。頭を垂れなかった。しかし、そうすることによって、結局、慢心の奴隷となり、悪のとりこになってしまった。 『人界』は、反対に、自分を超えた大いなる存在を畏敬し、全生命をあげて尊敬することによって、かえって自分自身を豊かにするのです。 五戒というのは、生命を外側から縛るものではなく、内面化された規範であり、誓いであり、人生の軌道といってよい。五戒を破れば苦しみの果報があると知って、知性で自分で自分をコントロールできるのが『人界』です」(法華経の智慧④P155~156)。 「人界」は、仏道への条件ですが、「四聖」と「仏界」は、「人間」の条件と言えるのではないでしょうか。 さらに、「人界」の境涯について観心本尊抄の「平らかなるは人なり」(御書241)をあげられ、その「平らか」の意味について言及されています。 「遠藤 「平らかなる…」のところで、いつも思い浮かぶ小説があります。吉川英治氏の『新・平家物語』のラストシーンです。 源平の戦乱の半世紀を見続けてきた庶民…阿部麻鳥と妻・蓬の二人が、吉野山の桜を見ながら過去を振り返り、しみじみ幸福をかみしめて語り合う場面です。 『何が人間の、幸福かといえば、つきつめたところ、まあこの辺が、人間のたどりつける、いちばんの幸福だろうよ』 『それなのになんで、ひとはみな、位階や権力とかを、あんなにまで、血を流して争うのでしょう。』…。 『人おのおの天分と、それの一生が世間で果たす、職やら使命の違いはどうも是非がない。が、その職になり切っている者は、すべて立派だ。なんの、人間として変わりがあろう』 戦乱の中を不思議にも生き延びてきた、平凡な老夫婦の姿…、これはまさに『人界』ではないかと思います。 名誉会長 有名なシーンだね。平凡かもしれないが、そこには人間としての立派な輝きがある。 『修羅』の生命は『位階』や『権力』を求めて争い、血を流し、傷つけ合っている。 しかし、二人は、自分自身に生きた。人と比べるのではなく、自分らしく、自分の道を全うした。その『軌道』が修羅の世相のなかでも、人界の安心をもたらしたといえる。安心といい、『平らか』と言っても、決して努力なくして得られるのではない。努力しなければ、環境に染まってしまうものです」(法華経の智慧④P157~158)。 「安心といい、『平らか』と言っても、決して努力なくして得られるのではない」との仰せが強く響いてきます。 (つづく) ※間隔を置いて投稿しています Tweet