投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 1月13日(火)21時43分39秒  

次に、二番目として、「容認しない」ことについて

日興上人は、日向や波木井一族の謗法を諌めたことに対し、「仮にも、へつらい曲げることなく、ただ経文の通り、大聖人が仰せられた通りに、諌めることができたものだと、自らをほめてこそいるのである。」と言われています。
結果はどうあれ、師敵対を諌めることが大事になります。しかし、師敵対の人間には正論が通じないことが多いでしょう。話が通じないことがすべての前提となります。それでもなぜ諌めるのか。諌めることによって火種ができるからです。
師敵対と戦った火種は消えません。厳然とそこに残るのです。日興上人が五老僧を諌めた。結果的には聞く耳持たれずに、身延を去る羽目になりましたが、だが、その諌めがあったからこそ今日文献として残り、師敵対との闘争の大きな武器となっているのです。

同じように、師敵対を諌めた火種は誰かに受け継がれ、やがては三世間を変革する因となり得るのです。相手が聞く、聞かないは別として、諌めること自体が日蓮大聖人の魂を護る最重要の戦いとなります。

実際は、どんなに諌めたところで、一度狂ってしまったら、いきつくところまでいってしまう可能性が大きいでしょう。会則改正でもわかるように、懸念する人が多くても止めることができなかった事実もあります。権力の前では、正論なんていうものは簡単に吹き飛ばされてしまうものなのです。

また、諌めることでの注意点としては、「具体的」でなければならないということです。日興上人も、五人所破抄等で、五老僧を理路整然と具体的に破折しています。どこがどう師敵対なのかを明示していくこと。創価学会においては、三代会長を永遠の指導者としています。これは、師敵対の戦いにおいての文証となるということです。先生の指導を明示し、師敵対の人間を諌める。

一例とし、この私の主張が正当性のある根拠として、師弟の宝冠VOL.3より、池田先生の指導を挙げておきます。
「青年を下に見たり、あごで使うような幹部がいれば、絶対に許してはいけない。たとえ相手がどんな役職や立場であろうと、その行為が間違っていれば、『何をやっているんだ』「先生の指導と違うではないか!」と、はっきり言っていくべきである。」

師敵対の幹部は許さないこと、諌めること。先生はそれを推奨しています。
諌めても、幹部も組織も変わらないかもしれません。逆に目の敵とされ、嫌な思いをすることになるかもしれません。しかし、そもそも師敵対との戦いとはそういうものであり、「覚悟」が必要なわけです。

そして、諌めるためには、日蓮大聖人や、三代会長の真意を理解していなければなりません。御書も切り文ではなく、時代背景や誰に、どういった立場の人にあてられた御手紙なのかを把握していかなければ、真意をくみ取ることができなくなります。文の底にある心をみていかなければ、教条主義に陥り、かえって大聖人の精神に反してしまいます。