2015年1月2日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 1月 2日(金)01時31分43秒 学生時代、大学の社会学の講義で教授が「社会学というのは、 現状を疑うところからはじまる。社会の常識や、 あたりまえだと思われていることに疑問を持ち、 本当にそれが正しいのか否かを追求していく学問である」と言われていた。 社会学に限らず、学問というのは、疑うところから始まり、 そしてあらゆる角度から検証していくこと。それが学ぶということである。 社会学の講義を受けて、私は「多様性」を認めることや 「創造的人間」についての考察をしていくことに対してのヒントとなりました。 私は、信じるということに対しても「疑って疑って疑って、それでも信じるに足るべきもの」、それこそが、『本当の信』であると考えています。 信心を深めていけばいくほど、これでもかというほど、 疑いたくなくなるような事態に遭遇します。そもそも信心というのは、 自分自身の宿業との対峙であり、その支配からの脱却であります。 それが簡単にできるわけがありません。 自分の命のベクトルを変える作業というのは、必ず波風が立ちます。 「法華経を信ずる人は冬のごとし」であり、「春のごとし」とは言われていません。 フランクル著の「夜と霧」の中で、飢餓浮腫が癒えた人の話が出てきますが、 その癒えた理由として、比喩的にこのように表現している。 「私がそれに泣きぬいたからです」 リルケ「苦悩の極みによって如何に昂められし」 ベートーベン「苦悩を突き抜けて歓喜に至る」 ある極みに達したときに、すべてがひっくり変える現象 仏法は、マイナスをそのままプラスにひっくりかえす法則であり、 その仏の力は誰もが有しています。-3000を0にするのではなく、+3000にひっくり返すこと、これを変毒為薬ともいいます。 だから、一番苦しんだ人が一番幸せになれるのです それを現実の上で示していくのが、創価学会員の役割であると、私は考えます 本年も、貪欲に信心を深めてまいりたい Tweet