一番偉大な人は誰なのか。
投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月 9日(火)11時31分35秒 返信・引用

近代オリンピックの記念すべき第一回大会は、今から百年ほど前の一八九六年(明治二十九年)、ギリシャのアテネで開催された。
歴史の中に埋もれていた古代オリンピックが、鮮やかに蘇ったのである。
地元ギリシャの人々の心は、いやがうえにも高鳴った。

当時のギリシャは、経済的にも疲弊しきっていた。暗い時代であった。
なんとか、その暗雲を吹き飛ばしたい――自国の選手の、見事な勝利を期待して、国民は競技を見つめていた。
ところがギリシャ勢は大会初日からふるわない。人々の間には、いつしか深い失望が漂っていた。

そうして迎えた最終日。注目のマラソンが行われた。
紀元前五世紀の、あの「マラトンの戦い」の故事にちなんでマラトンの村からアテネの競技場まで約四十キロ、長く厳しいレースの火ぶたが切られた。
(紀元前四九〇年、ギリシャの都市国家アテネは、ペルシャ帝国との戦いで、マラトンに上陸した強大なペルシャ軍を撃破。そのさい、アテネ軍の伝令は、マラトンからアテネへ力走、本国に勝利の報をもたらして、そのまま息絶えたという)

ギリシャの人々は、このマラソンに最後の望みを託した。皆、レースの行方を、固唾をのんで見守った。
しかし、最初に飛び出したのはフランス人。アメリカ人がそれに続いた。さらに後半に入ると、オーストラリア選手がトップに立った。

《わがギリシャ勢は、やっぱりだめか》――人々の表情には、落胆の色がしだいに濃くなっていった。
ところが、ゴール前七キロの地点で、突然、ギリシャの若き選手が先頭に躍り出た。

青年の名はルイス。羊飼いの若者であった。無名の庶民であった。

――庶民。弱いように見えて、これほど強い存在はない。

《強者》が、いかに見くだし、いじめ、苦しめようと、庶民には、旺盛な《生きぬく力》がある。
現実の大地に深く根をおろした、たくましさがあり、知恵がある。
一個の「人間」としての輝きがある。

その庶民のただ中に飛び込み、庶民とともに、みずからも一個の庶民として歩む――学会の強さはここにある。
そして、どこまでも民衆を、守りに守りぬいていく――それが学会の精神である。

この心を失い、いささかでも高慢なエリート意識などをもったとしたら、もはや学会のリーダーとはいえない。
また、人々を守る「力」と「先見」の英知がなければ、使命は果たせない。断じて甘く考えてはならない。

ルイスは、牧場を駆ける昔ながらの素朴な服装のまま、この大レースに参加していた。
他の国々のさっそうとした選手たちとは違い、まったくの素人であった。
科学的なトレーニングや、専門的な訓練も受けていない。

その無名の一青年が、ふだんのままの姿で、堂々と、スポーツの《エリート》たちの中を駆けぬけていく
――なんと劇的な光景か。私の心には、その雄姿が、一幅の絵のように浮かぶ。
その青春の力走に、私は心から喝采を送る。

ルイスには、だれよりも深い「勝利への祈り」があった。だれよりも強い「勝利への執念」が燃えていた。
うち続くギリシャ勢の敗北――青年は、悔しかったにちがいない。

《よし!だれがやらなくてもよい。おれが勝ってみせる。愛するギリシャの偉大さを、誇り高く証明してみせる》《おれは走る。祖国のために。人々のために》
――彼はあきらめなかった。走りぬいた。
「断じて負けない」との、青年の魂が、五体に眠れるパワーを限りなく奮い起こしたのである。
「他の《だれか》ではない。おれが勝ってみせる」――この一念である。この闘争精神である。

かのトルストイの名作『戦争と平和』。
その核心のテーマもまた、「《絶対に勝つ》と決めた人が、最後に勝利する」との《一念の力》を描くことにあったと考えられる。

まして「仏法は勝負」(=「仏法と申すは勝負をさきとし」御書一一六五頁)である。
「善」も勝ってこそ「善」とわかる。「正義」戦えば必ず勝ってみせる――これこそ学会精神である。
この強き一念があればこそ、学会は、一切に勝ってきた。

牧口初代会長以来、「広宣流布」の大レースに勝利しぬいてきた。
七百年来に未聞の歴史を開いた。波瀾の連続の幾十年間も、そのすべてを乗り越えてきたのである。
名もない羊飼いの青年は、走りに走った。前へ、前へ――。
各国の名高いランナーを次々に追いぬいていく。前へ、前へ――。

ただひたすら、アテネの競技場へと突進していく。
彼はただゴールだけを見つめていた。他人の思惑など眼中になかった。
胸中には、言いわけも、保身も、逃避も、恐れもなかった。ただ走る。ただ勝利を――。

競技場に彼の姿が現れるや、七万人もの大観衆が、全員、総立ちとなって迎えた。喝采また喝采――。
ギリシャの皇太子も感極まって貴賓席から駆けおり、最後の二百メートルを並んで走りだした。

立場を超えた「人間」同士の感動的な光景である。
そして、天まで届くほどの大歓声、万雷の大拍手のなか、青年は堂々とゴールイン。
それまでのすべての屈辱がいっぺんに吹き払われ、ギリシャの偉大なる栄光が、見事に蘇った一瞬であった。

近代オリンピックの創設者クーベルダンも、この光景を「すばらしい劇」と最大の感動をもって見守っていた。
そして、この勝利から「スポーツの世界では精神の力が、一般に理解されている以上に大きな役割を果たすものであることを確信した」とつづっている。

運動能力だけでもない。技術のみでもない。彼は「精神の力」で勝利を手中にした――。
広布の、そして人生のレースも同様である。
学歴でもなければ地位でもない。
信心の力こそ根本である。
能力でもない、策でもない。
偉大なる精神の力こそ、わが人生と広布に「勝利の栄冠」をもたらす。

一人の青年の勝利は、ギリシャの民衆に計り知れない自信と勇気を贈った。
その後、永らくギリシャの士気を鼓舞し続けたといわれる。
また、マラソンが「オリンピックの華」とうたわれるようになったのも、この感動のドラマがあったればこそである。

すべては、一人の青年の戦いで決まる。一人の民衆の勝利が一切を変えていく。
社会の中で、生活の中で、現実の中で、何があってもはつらつと、たくましく、トップランナーとして走りぬいていく。
そこにこそ、わが学会の、新しい勝利が生まれる。栄光と希望が生まれる。凱旋の万歳が響きわたる。
だれがやらなくとも、自分が勝てばよいのである。
自分が本物であればよいのである。私も、その決心で走り続けている。

【県・区夏季研修 第二回長野県総会 平成三年八月四日(大作全集七十八巻)】