投稿者:アルベア 投稿日:2016年 3月 3日(木)07時10分51秒   通報 編集済

聖教珍聞 1(意識論から紐解く)谷川の住人 様2016年 3月 2日(水)22時38分22秒

谷川の住人 様からの問いかけの回答です。

違和感溢れる「聖教珍聞」については何回かしてきたが、いよいよここまできたと思い「珍聞」

についてお伝えする。当然、「大白蓮華」の内容も同様である。

3月1日付けの1面 3月2日の3面記事 今年に入りよく見かける、体験のページでの左上から中段

にかけての違和感のある毛筆体の使用、記事・写真のレイアウトなどは三流週刊誌レベル、「聖

教」という長年慣れ親しんできた者にとっては「違和感」を覚える。読者に対する軽蔑・冒涜の

姿勢が見え見え、慈悲の新聞とは言えないまさに愚考の「珍聞」である。

1-編集方針・編集者の幼稚化

2-記事の統括者の無責任

3-編集室の訓練無き「おごり」の浸透

4-読者不在の編集方針 現場不在・当事者不在のドキュメンタリー

「聖教」本来の編集方針の腐敗・堕落現象がある。そうしたことが「違和感」となって読者に伝

わっているのだ。

相対的現象・現実を知らない輩集団の墓穴でもある。

今回の3/1.3/2.の記事は単なるミステイクではない。聖教本陣の「意識の汚れ」「生命の汚れ」

が現象化されたものとして見る事ができる。皆さん方が「思っていること」より腐敗・堕落は関

連企業・団体にまで及んでいるということだ。潮・第三文明・創大・東哲等、多次元同時に起き

ている現象なのだ。

世俗化する創価の現状を、その都度中心者の意識、執行部の意識が反映、投影されて現象化して

いるのだ。

記者たちの育成に手抜きしている。職業人としての世法化である。世法にこびている愚考でもあ

る。

こうした「違和感」は聖教に勤務する方々も「うすうす感じている」が何もできないのだ。

責任ある人材の育成を怠り、イエスマンに仕向けてきた空家・腹田体制の現象化である。

池田先生との確執がコンサルを導入せざるをえなかった猿智慧でもある。民衆救済は二の次と

いう人材しか育っていなかったと言う証拠でもある。

聖教を含む執行部の面々には、その時々の「よからん」との思いだけで「うしろめたさ」等は

感じていない。感じる、感じない以前の「意識の世俗化」が定着化している。

今までも音声同時中継の記事を担当していた若手(当時)等の純粋性を踏みにじり退職へと追

い込み、イエスマンしか残さなかった面々、退職者の多くは創価の「裏切り」を感じながら去

って行った事実が山ほどある。

池田先生と執行部の軋轢に振り回された結果である。「おかしさ」を感じても「言えない」

「何もできない」という現実である。もう少し頑張れば、体現者に成れたのに、孤立無援の状況

に負けたのだ。「不二」という体感・体験の前の段階で自ら引いてしまったのだ。先生の直接の

薫陶をうけながら、現場から引いた。これも師への背信行為である。生命論がわからないとこう

なるのだ。知識として教学を論じられても生命をコントロールできないのだ。感応道交が生じな

いからだ。

三代の伝説化、神格化をしていく働き作用の現われとして「聖教珍聞」が前面に出てきているの

だ。聖教新聞の活字変更を見て「馬鹿者」がと怒りを覚えた。この時点で創価は終わったのであ

る。

全ては「不二」となる体感・体験者の不在がもたらせているのだ。

空家・腹田・日顕等は池田先生と同世代または直接世代(直接的に薫陶を受けられた世代)では

あるが、相対的現象・現実からみると、広宣流布の原理から見ると相対的関係にあるから発展し

てきたのである。作用反作用の現れとして存在している。ここのところがわかると生命現象をコ

ントロールできるのである。

世俗化は更にすすむ、「珍聞」はより「珍聞」となり、邪教化することは既に海外で起きてい

る、現象である。

全ては「仏の御計らい」であり、体感・体験者による創価の始まりをもたらす前兆なのである。

反転・転換がもたらされるための毒素の排泄なのである。自然治癒力がもたらされるために起き

ている現象なのだ。

私たちは、そうした大転換の目撃者となるのだ。

執行部のやることなすことに一喜一憂するのは愚である。全ては「気づく」ための促し、働き作

用だからである。