投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 2月18日(木)00時39分47秒

御書P314
「不軽軽毀の衆は不軽菩薩に信伏随従せしかども重罪いまだ・のこりて千劫阿鼻に堕ちぬ」

不軽菩薩を馬鹿にし、迫害した衆は、後に改心したが、それでも千劫という長き間、阿鼻地獄に堕ちた。これが仏法の厳しさです。反省し、改心してもその罪消え難しなのである。次元は異なるが、一般的にも、例え、パワハラやいじめを行使し、後に改心しても、人を傷つけ、苦しめた事実というものは消えない。本人の反省や変化という称賛できる側面と、いかなる理由があろうとも人を苦しめた(悪)という側面の、二つの角度を見ていかなくてはならない。

善と悪が入り乱れているのが人間の世界であり、どちらか片方だけというわけにはいかない。人を傷つけ、苦しめる行為は悪である。そして、悪は絶対に許さないのが仏であり、仏法者の根本姿勢です。その強き一念があってこそ、悪を防ぎ、止めることができる。ここに甘さがあると、慈悲魔に取り込まれ、かえって悪を増長させ、善人を苦しめる結果となる。改心しても、それでも地獄に堕ちるというのが悪の強さであり、それに対抗するには慈母ではなく、厳父の厳しさがなければならないのが原則といえます。

悪を滅してこそ功徳が生じる。悪を容認する弱さこそが最大の悪ともいえる。やさしさに接し、改心する悪ならまだいいが、それを遥かにしのぐ極悪という存在がいることも事実である。極悪というのは、やさしくすればするほど増長する性質がある。日顕然り、山友然りである。こういうレベルになると、徹底的な呵責でしか救うことは出来ない。甘さは命取りとなるので要注意である。仏法は一律に考えるのではなく、悪にもいろんな悪が存在するということです。慈母の振る舞いで救える人、逆に、厳父の振る舞いでしか救えない人もいる。

人を傷つけ、苦しめる人間(悪)は不幸である。仏法は一番不幸な人(悪)を救うところにある。大慈悲こそが根底である。悪との闘争において、慈悲を根底とするか、憎しみを根底とするか。この一念の違いによって結果は変わる。憎しみが根底では、自分自身がダークサイドに堕ちる可能性が高い。そうならないためにも、題目をあげきらないと、悪と戦うことはできない。

創価学会で活動するということは、「組織悪との壮絶な戦い」をしていくということである。少なくともリーダーとなる人間は、この意識がなければ、到底会員を護ることはできない。それだけ根深く、強いものだからだ。平和と人権は勝ち取るものと同様、人間主義も勝ち取っていかなくてはならない。それには、悪と戦うという意識が大事になる。これが欠けている幹部は、見事なまでに「何もしない」。そういったがっかり幹部はいくらでも見てきました。このレベルでは、かえって広宣流布の邪魔となってしまう。

相手に同苦し、善性を引き出していくという慈母の振る舞い(やさしさ)と、悪を呵責し、断じていく、厳父の振る舞いの、両方を具えてこそ真の仏法者ではないか。どちらか片方が強調されすぎると、仏法が歪んでしまう。先生の指導も、この二つの側面があることを見ていかないと、わからなくなってしまう。優しさと厳しさを兼ね備えているのが、師というものです。池田門下を名乗るのであれば、慈母と厳父の両方を体得し、使いどころを間違えない(智慧)ようにしていきたいものです。