投稿者:誰か私を呼んだ? 投稿日:2016年 2月14日(日)12時59分4秒 編集済

あることで関西の友人の意見を聞きたくて電話をしたところ、
その友人いわく、役職解任の上、会員との接触禁止などの「要請」(従わない場合は除名)を受けたので、「自分から」は、友人への連絡も控えていると言われた。
どうやら、今月はじめの書き込み(http://6027.teacup.com/situation/bbs/37678)に、ズバリ該当する人物だったみたい(他にも同様の方がいらっしゃるかもしれませんが)。
ビックリポンで、聞きたかったことは聞きそびれてそまったが、私には彼が間違っているとは思えなかった。以下、私とその友人とのやり取りの要旨を、勝手に紹介します。

(私)本気で学会を良くしようと思ってるなら、学会の中で役職も上になっていかないといけない。処分なんかされてる場合じゃないでしょ。
(彼)それまで待てることと、待てないことがあるし、理事長でも総合教学部長でも○○県トップの副会長でもできないのだから、役職云々とか言ってるだけで、あなたの認識のお花畑度合いと隠れ権威主義が分かる。

(私)本部とか区以上の幹部のことはどうでもいい。支部、地区の部員さんを守るのがあなたの使命なのだから、除名された友達なんか捨てて、踏み絵は踏まないといけない。守るものを間違えてるでしょ。
(彼)地元には、突然、迷惑かけることになって、ホントに申し訳ないと思ってる。支部婦人部長、地区婦人部長には土下座して謝った。でも、信念に従って正しいことをしている一人の人を、私は捨てられなかった。

(私)先生がいらっしゃるのに、執行部が間違ったことをするわけないでしょ。
(彼)第二次大戦の前、現人神とされていた天皇陛下は、軍部の暴走と開戦を止められなかったでしょ。今の先生も、ある意味、それと一緒だよ。一昨年の会則改訂は世界広布の観点からギリギリ是としても、今回のご祈念文の「法華経の肝心 南無妙法蓮華経の御本尊」が、人法一箇を捨てたものになり、大御本尊だけでなく、各家庭にご安置されている弘安3年以降の御本尊様の相貌とも合ってないことは、あなたも分かってるでしょう。

(私)ハイ、そこは確かに変だと思う。でも、先生のご了解があったと。だから私は、消極的に「用いない」と。自分の拙い考えで「くじく」のは、違うのでは?。それが遺誡置文の現代的な読み方でしょう。
(彼)先生の了解を得て改正したと言われているけど、ご祈念文と会則の矛盾を解消することを事前に了解されていても、人法一箇を捨てることまで認められるとは思えない。ご祈念文の改訂に関わった文献学者は、大聖人が文永年間に書かれた御書の御文で、弘安年間の御本尊様も理解しようとするけど、文永年間の御本尊様と、弘安年間の御本尊様では、相貌が明らかに違うでしょ。それに、先生の了解を得たのは、ご祈念文を改訂すること?、改訂した文?、それとも、先生のお名前を入れること?。先生の了解という言葉が、まるで大本営発表に聞こえてしまう。ホントに、このままで、大丈夫なの?

(私)そこは分からないし、百歩譲ってそうかも知れないけど、上手くやっていくために、形だけでも謝ったらよかったのに。生き残らないと意味がない。
(彼)謝ったら、ほかの査問された人みたいに、次は、パソコンとスマホの即時提出を求められるけど、そしたら、あなたとのメールも、み~んな出てしまうけど、それで良いの?。捜査機関でも、令状をとってするようなことを、謝っている証拠として、任意ですぐに出せというのは、余りにもおかしいと思わない?。

(私)え~ッ!。そんなことまでするの?。まさか、そんな。それなら、最高幹部に、直接言えば良かったのに。先生にお手紙出せば良いのに。
(彼)あのね、某最高幹部に、直接お会いし、直接お手紙を手渡して、直接お願いしたことが、処分のきっかけになっていると方面長から聞いたんですけどねぇ~(笑)。だから、元職員の方の三人のブログに書かれていることは、私の体験からは真実だとしか言えませんよ(笑)。ホント、お花畑的な認識、知ってるようで、なーんも知らないんですね。直訴は打ち首、というのが現実なんですよ。

(私)うーん。でも、処分されて困ってることないの?
(彼)私と会員との接触禁止が区内に徹底されたために、遅い時間に内緒でやって来る人とか、電話とかメールも一切だめだからといってわざわざ郵便でと言う人とか、通勤途上で待ち伏せして偶然を装って会いにくる人とか、幹部の家に抗議に行ってくれた人(幹部も説明できずに困った)とか、外国の人を経由して(笑)事情を聞いて来る人がいたりして、色んな人に余計な手間をかけさせていることと、そのためになぜか忙しくなったのが、大変と言えば大変かなぁ。でも、一番困ったのは、学会完全肯定の兄弟とか、親のこと。いかなる理由があるにせよ学会に歯向かうのは悪、という価値観の人に、正直に、ありのままの事実を伝えてしまったことの心苦しさでしょうか。