投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月24日(日)09時25分41秒   通報
池田先生は“六巻抄講義の序”で

「日寛上人の六巻抄は、日蓮大聖人の正法正義を、化儀の広宣流布の未来に
流れ通わしめんがため全魂をこめて著された破邪顕正の書であり

・・・未来永劫にわたる源遠長流の教学の大基盤であると信ずる。
・・・戸田前会長も、常々『教学は日寛上人の時代に帰れ』と述べられていた。

・・・もはや、一宗門の六巻抄にあらずして、万人の六巻抄となりつつあることを銘記されたい。
・・・本講義が、さらに広大な教学の潮流となって、二十一世紀の生命の世紀を開いていくことを願ってやまない」

(六巻抄講義 聖教新聞社刊)と述べられ、日寛の六巻抄を最大に宣揚しました。

ともあれ、日寛の指導によって、
大石寺はかつてないほど盛んに宗学が起こり、多くの人材が育っていきました。

しかし、江戸時代から明治時代に変わり、時代の推移のなかで明治政府は
「僧侶の肉食・妻帯・畜髪は勝手たるべき事」との明文を記したいわゆる「太政官布告」を発令し、

これによって宗教界の堕落が始まります。

当然、大石寺僧侶もその例外ではなく、またもや僧侶の堕落と、法脈を継ぐ貫首の座をめぐる紛争が
たびたび起きていて、せっかく法滅状態の大石寺を復興させた日寛の努力も虚しく、再び大石寺は退廃していきます。

その後、明治政府は仏教各宗派を、
「天台・真言・浄土・禅・真宗・日蓮・時宗」の七宗に各一管長の制度にすると定めました。

日蓮宗は「一致派」と「勝劣派」の二派に統合され、一八七四(明治七)年五月、大石寺は
勝劣派(興門派・妙満寺派・本成寺派・八品派・本隆寺派が合流)に加わり、

なんと日寛が破折している邪義の寺々と合同したのです。
・・・つづく