投稿者:ジョーカー 投稿日:2014年12月 9日(火)12時22分57秒

身内に甘いのが人間の性である
外の悪には非寛容だが、内の悪には寛容になりがち

個人レベルでも、人にはきびしいが、自分には甘い傾向なのが人間ではなかろうか
個人も組織も内輪の中に魔が潜み、一番弱い部分を突いてくる

仏道修行とは魔との闘争を意味する
出家した僧侶が妻子を持たなかったのは、偏に仏道修行の妨げにならないようにするため

身内には情が入りやすく、そこに魔が付け込んでくる
治安維持法による弾圧により、牧口先生・戸田先生以外の幹部が退転してしまったのも、
実にこの身内への情の要素が大きい

学会員は、外の敵は容赦なく呵責するが、内の敵には甘い
同志だからという慈悲心に魔が付け込み、慈悲魔となる

御書
「大悪魔は貴き僧となり父母・兄弟等につきて人の後世をば障るなり」P1497

味方であるはずの、僧侶・父母兄弟等が魔となってあらわれる

内部の悪(謗法)に対する御書としては
「浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし、
重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし」P1308

許す場合と叱咤(激励)する場合の二通り

人間だから、愚痴や文句や悪口も言ってしまうでしょう
それを一々責め立てたりしたら、ギスギスした嫌な世界になってしまう
そういう場合は包容して、守っていくことが肝要でしょう

会員を利用する幹部、会員に嫌な思いをさせ、苦しめる幹部等に対しては、
許すのではなく叱咤し、信心をはげますこと

軽い謗法(悪)は大目にみて、重い謗法の場合は叱咤激励する
この使い分けが重要ではないか

どちらか極端にならないこと
責めるべきか責めるべきでないか、その見極めが必要

所謂、臨機応変というやつですね

尚、内外問わず、大謗法(反逆・師敵対レベル)に関しては、
呵責(きびしく責め、苦しめる)し駆遣(追い払う)し
挙処(罪をあげて処分)するのは言うまでもないでしょう