投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2015年 9月21日(月)09時11分23秒   通報

公明党が推進した安保体制に賛同できなかった方
普段やらない、いろいろな活動をされたのではないでしょうか。まずはお疲れ様でした。私もいろいろ頑張りましたが
悲壮感や敗北感はほとんどありません。
これからだなと感じています。
池田先生の平和哲学はこれからもっと拡がるのではないか。そんな感覚を持ちました。

*****************
池田大作全集70巻にあります。

心して「民衆の歎き」を知れ! 投稿者:蘭夢
投稿日:2015年 9月20日(日)23時16分34秒
昔の先生の指導です。
心して「民衆の歎き」を知れ!

その幸福のために、すべてをなげうって戦え!

<民衆の幸福こそ指導者の責務>

 ここで、指導者の責任の重さについて、一言申し上げておきたい。
 大聖人は「守護国家論」の冒頭で「悪趣に堕つるの縁・一に非ず」(御書36頁)――人間が地獄・餓鬼・畜生の三悪趣に堕ちてしまう縁は、一つだけではなくいくつもある――と述べられている。
 そして、その一つとして『国主と成つて民衆の歎きを知らざるに依り』(同頁)と厳然と指摘されている。すなわち――国主という、一国の民衆に対して重大な責任ある立場にありながら、“民衆の歎き”を知らない。また知ろうともしないがゆえに――と。
 そのような無責任で無慈悲な権力者、傲慢な指導者の罪は、はなはだ重い。生命の厳しき因果律に照らして、必ず悪道に堕ち、ほかならぬ自分自身が大変な苦しみを受ける――との御断言である。短い御言葉ながら、重大な原則を教えてくださっている。いわば全世界の指導的立場にある人への警告とも拝せよう。
 “民衆の歎き”を知る、“民衆の声”を聞く、“民衆の幸福”のために、つくしにつくしていく。それが指導者の使命である。どこまでも民衆が根本である。
 指導者は民衆のためにこそ存在する。当然のようでありながら、この真実の“民主”の原理に生きぬく指導者は少ない。民衆に仕えていくのではなく、自身のエゴに仕えていく指導者があまりにも多い。
 因果の理法の裁きは厳しい。民衆に支えられてこそ得た自分の立場を利用し、どんな名声や財産や勲章で華やかに表面を飾ろうとも、その内実はむなしい。いな飾れば飾るほど、民衆を忘れた堕落の生命は、悪道への因を一日また一日ときざんでいる。
 大聖人は、この厳たる生命内奥の事実を教えられることによって、真実の指導者の姿を示唆されていると拝される。

 心して「民衆の歎き」を知れ! そして、その幸福のために、すべてをなげうって戦え! ここに指導者の根本要件があると。
 世間の指導者に寄せて仰せになった、この御言葉はまた、仏法の世界にも通じる。
 それどころか、仏法の世界で、人を救い、正しく導くべき立場にありながら、その責任を果たそうとしない罪は、比較にならぬほど重い。まして、守るべき仏子を軽侮し、利用し、いじめる者にいたっては、その罪は言葉で言いつくすこともできない。
 反対に、皆さま方は日夜、広布のリーダーとして、懸命に民衆の嘆きに耳を傾け、その幸福を祈り、行動されている。仏法の眼、生命の因果の眼から見るとき、いかなる栄誉の指導者よりも尊き存在であられる。その無償にして、信念の行動に対して、御本仏の御称嘆(ごしょうさん)はもとより、全宇宙の諸天善神が皆さま方を守りに守っていくことは間違いない。
 私も戦う。指導者として、休みたくとも休むわけにはいかない。止まりたくとも、走るのを止めるわけにはいかない。その、広布への渾身の実践にこそ、大聖人の仏法の生きた脈動が、また魂があると信ずるからだ。

1988. 3.24第1回和歌山県記念総会