投稿者:河内平野 投稿日:2015年10月15日(木)14時32分8秒   通報

いつの時代であれ、仏教の「平等」の精神に反して、僧侶が権威をふりかざし、
信徒に従順と尊敬を強要するようになった時に、教団は腐敗し、僧侶は堕落している。

信徒の側は、僧侶の権威にひれ伏した時に、本来の信仰心は失われ、僧に仕え、

依存するのみの形式的な信仰となり、真の功徳はなくなる。

御本仏日蓮大聖人、すなわち大御本尊に信伏随従し、仕えることは正しいが、
その根本から外れて、僧侶に仕えることは、仏法の本義に背く誤りであることを知らなければならない。

弘安二年十月、日興上人が幕府へ提出された「滝泉寺申状」には、滝泉寺の院主代・行智の悪行の数々が暴かれている。

すなわち、法華経をばらして柿紙(渋紙)に作り(張り合わせて柿紙を塗り、敷物や包み紙などにした)、堂舎の修理に使った。
寺の財産を私用にした。賄賂をとって無知悪才の盗人を供僧にとりたてた。

寺内の農民を使って鶉狩り、狸狩り、鹿狩りなどをして、住職の坊でその獲物を食べた。
寺内の池(殺生を禁じた池)に毒を流して鯉や鮒を殺して村で売った、等々――。

とうてい僧侶とは思えない醜行ばかりである。

「見聞の人・耳目を驚かさざるは莫し仏法破壊の基悲んで余り有り」(御書八五三頁)

――その悪行を見聞きした人は、目や耳を疑い、驚かない者はなく、仏法破壊のもとであり、どれほど悲しんでもたりないほどである――

と日興上人は嘆かれている。

外敵によってではなく、悪侶による悪行によって、仏法は破壊されるのである。

悪侶が実権を握った場合には、寺が荒廃し、他の善良な僧や信徒の心が離れていくのは当然であろう。

そこへ、日興上人が、末法の正法を掲げ、腐敗の根源である邪義を破り、「改革」を訴えられたのだから、
保身の僧は驚き、恐れ、一方、心ある僧侶は正義に目覚めていった。

下野房日秀らは、法華経を読誦し、唱題に励み、折伏を実践するとともに、腐敗した滝泉寺の改革を強く要求した。

しかし、悪人に共通するのは、詭弁を弄して自己正当化するのが巧みで、他人や環境に責任を転嫁し、少しも恥じないことである。

そして、自己の非が批判されると、逆恨みして、反対に相手を激しく非難し、攻撃する――。

【関西最高協議会 平成三年十月十七日(全集七十九巻)】