投稿者:河内平野 投稿日:2015年10月15日(木)10時37分10秒   通報

京都乃鬼さんとグリグリさんの意見は正反対です。
でも、これが本来の創価学会のあるべき姿ではないのか。

それをまるで、
公明落選運動をしたら悪。公明を応援すれば善。
反対に、公明を応援すれば悪。公明落選運動をすれば善。

みたいな善悪二元論的な議論になっている。

グリグリさんも仏法の哲理を紹介していたが、仏法は「中道思想」。善悪不二です。
縁起という哲理を基本において仏法は「関係主義」です。

京都乃鬼さんは、

>グリグリはんや白髭はんがどの様な行動するかは自由や。
>若いと、先ばしりしても元気やからエエけど、ワシは一発勝負やw

と、グリグリさんや白髪さんの考えを受け入れている。

グリグリさんは、それに対して鬼さんに感謝し、その上で

>グリグリは、グリグリの信じた道を真っ直ぐに歩もうと思います。

と、別の行動を選んだ。

考え方や行動は違えど、二人に共通しているのは互いに認め合っているという関係性。

そして、両者は共に「池田先生」という一点で完全に同心です。

当然、両者は異体なのですから考えも行動も違って当たり前です。

公明応援運動――善   公明落選運動――悪

公明落選運動――善   公明応援運動――悪

という善悪二元論的・次元の話ではなく、自分は「池田先生」という一点でどう行動するのか、だと思う。

これは自分で決めるしかない。なぜなら、個々人において「縁起」は複雑だからです。

最終的に、どちらかの思想の拡大次第で勝負が決まる。それが時の民意ではないかと思う。

だからどちらの意見を採用しようとも、自分自身が真剣に戦えばいいと思う。

池田先生は「私の仏教観」のなかで、上座部派教団と大衆部派教団の「根本二部の分裂」をこう分析しています。

「私には、長老派、いわゆる上座部派の教団側にその原因があったように思われてならない。
これはあくまでも私の推測だが、後に大乗教徒によって『小乗教』と非難されたように、
部派仏教時代の上座部系教団は、釈尊在世中の生き生きした脈動を忘れて、大衆から遊離し、
権威主義に陥っていたのではないだろうか。

もし彼らが、釈尊の教えを見失うことがなければ、これほどの分裂はなかったはずだ。
しかし、別の一面からいえば、仏法が釈尊一人のものから万人のものとなるために、
経なければならない道程だったかもしれない。

いわば、胎動の苦悩の時期とも考えられる。
あらゆる論が出されて、それがさらに大河となって流れる時を待っていたにちがいない」

と述べられ、

「一応は上座部が正統派で、大衆部が異端であるかのようにみえるかもしれない。
しかし問題は、仏教本来の精神に照らして、いずれが正統派であるかといえば、
苦悩に沈む民衆のなかに飛びこみ、一人でも多くの人を救ったほうが、真実の正統派であるといえる」(四十二頁)

と結論付けている。

この大衆部の運動は、釈尊在世の原点に帰る運動であったといえる。それは、「正統と異端」といった争いではない。

仏教の場合、革新運動はつねに「原点に帰れ」という精神から出発しているのです。

改革派は少数のようであっても、結局は原点に正しく立った思想が勝利を収め、おのずと本流になっていくのです。

ちなみに、河内は「公明党落選運動」驀進中です。笑