投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年11月15日(日)00時18分40秒   通報

>日蓮仏法は、事の世界です。理の世界ではありません。戦うべき対象は何か。ターゲットが不明確なままで、リアルに、何を持って結果とするのか、そこをはっきりと形にして祈る作業なくして不毛と考えます。
リアルマターの整理と、決着点の明確化について、みなさまのご意見をお聞かせください。<

重要な問題提起ありがとうございます。私の思うところを述べさせていただきます。
戦うべき対象は、「54年の命」であり、それが現実世界に具現化されたものであると考えています。もちろん命(一念)は目には見えませんが、現実になんらかの結果となって生じるものです。54年の命を大別すると、「個人」、「現場」、「体制側」の三つの観点で考えることができるのではないかと思います。それぞれのリアルマターと決着点を浮き彫りにすれば自ずと答えがみえてくるのではないでしょうか。

・個人
まず問うべきことは、自身が54年の命なのかどうかです。「あなたは54年の命ですか?」と問われたら何と答えるでしょうか。54年の命の定義については、いままで沢山の投稿文の中で、浮き彫りになっていると思いますので、あえてここでは決めません。個人においての決着点は、54年の命の転換であり、即ち、「何を第一として考えるか」ということです。54年の命の本質は臆病(保身)であり、不信です。54年の命を断ち切ったというのであれば、証を示さねばなりません。それは、「最高の勇気の行動」となってあらわれます。自身にとって、最高の勇気の行動とは何かを問えば、答えは出ますし、出さなければなりません。これは個人の問題ですので、決着点は自身で決めることです。

・現場
創価学会の現場には、54年の命が溢れています。それは、会員第一ではなく、組織第一という「空気」です。これは恐ろしく、個人では良い人でも、組織となると人が変わる人がいます。学会は、三代会長の指導を根本とし、基準にしています。会員第一こそが三代会長の指導であり、そこから逸脱(会員利用)するいかなる行為も容認しないこと、また、容認する人間に対し、「おかしいではないか」と言っていくことが、空気を変える戦いとなります。あくまでも三代会長の指導を根本とすべきであって、指導とズレがあるのであれば、修正していくことが真の団結であり、正しいありかたです。何でもかんでも団結を強調し、組織の方針に従うことが団結であるというのは54年の命です。

・体制側
組織に決定権のある人たちであり、就中、最高幹部を指します。ここが54年の命であったら、創価学会総体に影響を及ぼし、場合によっては広宣流布そのものを破壊してしまう立場です。責任は重大であり、間違いを犯すことは許されない。間違えたのなら、多くの会員が苦しみ、犠牲となってしまう。だからこそ、厳しく見ていかなくてはなりません。また、体制側の人は、自身が54年の命であること自体が、会員を苦しめる結果となるので要注意です。学会総体の方針を決める重要ポジションですので、利害関係や、誰かの既得権を守るために何かを決めることは断じてあってはならない。ましてや派閥など不要であり、ただただ会員のために尽くす、そこにしか存在価値はありません。体制側の54年の命を発見した時に、改善できる「システム」を設けることが、一つの決着点とも言えます。

仏法には、「自分には関係ない」という考えはありません。全部自分のこととして捉えていくところに深さがあります。当然、一会員であっても、自身のことはもとより、現場のこと、体制側のことも考えていかなくてはなりません。54年の命はあらゆるところに蔓延っています。自身の中にも外にも存在します。現場の一会員であれば、自身の54年の命を断ち切り、現場では空気と戦い、体制側を厳しく監視する。それには三代会長の指導を羅針盤とし、物事を判断していくこと。目に見えない一念や空気、目に見える振る舞いや行動といったものと対峙し、変革していく。

仏法は仏と魔との永遠の戦いですので、厳密にいうと、「決着」自体はないでしょう。54年の命も一念三千の範疇ですので、ずっと戦い続けなければなりません。54年の命を体現した、あらゆるモノとの戦いが、真の池田門下の戦いです。最高の勇気を振り絞り、行動する人間の中に、日蓮仏法は輝き渡ります。54年の命と戦う誓願の題目が出発点であり、本末究竟等します。言い換えると、54年の命と戦うと決めること自体が「決着」なのです。これが自分が変わればすべてが変わるという仏法の原理というものでしょう。