投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月22日(火)07時16分58秒     通報
■ 自我褐 —- 「自身」が「永遠の仏」

遠藤: 「方便現涅槃」には、釈尊が亡くなった時の状況が反映されているのではないでしょうか。偉大な師が亡くなって、茫然とする弟子たち —- これから何を支えに生きていけばよいのか。

須田: 経典によれば、それは「髪の毛のよだつ」恐ろしいことでした。ある者たちは「髪を乱して泣き、両腕をつき出して泣き、砕かれた岩のように打ち倒れ、のたうち廻り、ころがった」と伝えられています(『ブッダ最後の旅』中村元訳、岩波文庫)。

斉藤: 後世の仏教徒にとっても、釈尊のいない虚しさは大きかったと思います。そうしたなか、法華経の「方便現涅槃」は、釈尊の表面上の「生と死」にとらわれてはならないと教えました。それを超えた「永遠の仏の生命」に目覚めよと呼びかけたわけです。

名誉会長: そう。しかも、その「永遠の大生命」に目覚めたとたん、それは実は自分自身の生命の奥底でもあることに気づく。わが生命の夜明けです。ゆえに寿量品の「自我偈」は、「自」の字で始まり、「身」の字で終わっている。「自身」の自由自在の境涯を説いたのが自我褐なのです。

須田: 自我渇は、寿量品の要ですし、寿量品は仏教全体の魂です。仏教全体の究極が、「自身」の大生命に目覚めよという叫びなのですね。

遠藤: 寿量品には「如来は如実に、三界の相を知見す。生死の、若しは退、若しは出有ること無く、亦在世、及び滅度の者無し」(法華経 p499)と説かれています。
〈如来は、ありのままに三界の実相を知見している。生と死といっても、この三界から退き去ることも、この三界に出現することもない。また世に在る者、滅度した者という区別も無い〉
要するに、「生」もなければ「死」もないというのですね。

名誉会長: しかし現実には、「生」もあれば「死」もある。それなのに、どうして、そう説かれているのか —- 。

遠藤: やはり法華経では、表面の生と死を超えたところに、目を向けさせようとしているからではないでしょうか。

斉藤: そうだと思います。「生死の二法は一心の妙用」(伝教大師)といいますが、その「一心」に目覚めさせようということだと思います。

名誉会長:  そう言えるでしょう。しかし、その「一心」すなわち「南無妙法蓮華経」という宇宙生命に目覚めた後は、「生」も妙法の生、「死」も妙法の死とわかる。ゆえに、もはや「生死が無い」と言う必要はない。
むしろ「生も無ければ死も無い」と言うこと自体が、現実逃避であり、一つの「とらわれ」になってしまう。